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硝子の生る木

そこそこ繁華街があり、それでいて自転車でちょっと走ると田んぼだの畑だのがある中途半端な田舎町の学校に、嫌われ者の生徒が居た。
数年前に越してきた生徒の家庭は他より少し貧しくて、小さな平屋の貸家に家族五人で住んでいるという。
彼女はまず見た目が悪い。艶の無いぼさぼさの毛並みに傷だらけの体をしている。
別段、不潔なわけではない。近寄っても悪臭が漂うわけでもないし、目やにが常についているわけでもない。
ただ、毛並みが悪いのだ。生まれついてのものなのだろう。
体中にある傷や欠損も遺伝子によるものだ。昨日今日に負い、膿をはらんでいるわけではない。
しかし周囲の生徒達は汚物でも見るような目で彼女を見ては嘲笑う。困った事に教師達までもが歪んだ笑みを黒板に向け、彼らの仕打ちを黙認している。
寡黙で、特に成績が良いわけでもない。いや、寧ろ悪い。
彼女はよく放課後一人残され、プリントと向き合わされている。
塾に通うような経済的なゆとりは無い。だから少々帰宅が遅れても保護者は文句を言ったりなどしないのだ。
「タダで教えてやってるんだから感謝して貰わないとな」
不運なくじを引いたと思っているのか、彼女のクラス担任はプリントに向かっている少女に厭味をざりざりと擦りつけ、無垢である筈の心をヒリヒリさせる。
嫌われる原因は他にもある。嘘つきなのだ。
数年前、転校してきた早々彼女はこう言った。
「ワタシノイエニハ、ガラスノナルキガアリマス」
無邪気な子供が語る空想だったのか、見た目のさえない転校生が皆の気を引こうとしていただけなのかは判らない。
そんな木はあるはずが無い。それを知っている子供達は腹を抱えて散々笑った後、毎日「その木を学校に持って来て見せろ」と迫った。
当然だが彼女はそうする事などできもせず、「オトウサンガ ダメダッテ」と誰にでも予想のつく言葉で要求を退け続けた。
最初の頃は執拗な要求に追われる彼女を気の毒がって庇う者も居た。
しかし彼女はそのお礼に小さな硝子の破片を持って来て、さも硝子の生る木からもいで来たかのように見せ続けているうちに一人、二人と相手にしなくなっていった。
どこで拾ったのかわからない硝子の破片を見せられた所で馬鹿馬鹿しさが募るだけだ。
そうしているうちに彼女はいつも一人で居るようになり、そこはかとなく嫌がらせを受けるようになっていったのだ。
彼女はどんな嫌がらせをされても表情を変えず淡々とそこに居る。
堪えきれずに教室を飛び出すことも、我を忘れて机や椅子をなぎ倒すこともしない。
ひたすら透き通った硝子玉のような目で乱暴や卑怯な仕打ちを与えた者をじっと見詰め返す。そしてそれがまた気味悪い、と新たな嫌悪を誘うのだ。
いっそ泣いてしまえば良かったのかもしれない。
そうすればあのみすぼらしい見た目に苛めと涙だ。
内心に正義感をみなぎらせた者の同情を誘い、状況が変わるかもしれない。
しかし彼女は一粒の涙を流す事も無く、いつもひっそりと教室の隅にある自分の席に座っている。



「それ、ずっと前に教わったでしょう? 忘れちゃったの?」
黒板の前で問題を見詰めながら何一つ答えが浮かばぬ嫌われ者に、隣に居合わせた少女が囁く。
頬に華美な花を持つ少女はこの“嫌われ者”を一番最後まで庇う者だった。
彼女はゴミ同然の硝子のかけらを見せられても「綺麗ね」と碧い瞳を輝かせ、他の者がどんなに悪く言おうとも愛想をつかそうとはしなかった。
なぜそうしたのか。
少女にはこの嫌われ者にそっくりの姉が居るのだ。双子の姉だ。
そっくりと言っても違う所はある。この嫌われ者には片方の耳が付け根から無いが、少女の姉には二つの耳がついている。
毛並みも少女と双子のせいだろうか、少し明るめの色をしており、所々だが美しい妹と同じ毛質の部分もある。
少女は「なぜあの嫌われ者を庇うのか?」と尋ねられると決まってこう答えた。
『だって自分の姉が目の前で苛められているみたいなんだもの。見過ごせないわ』
その優しさと美しい見た目故だろうか、少女はいつの時も多くの者から好かれ、いつも誰かしらが取り巻いていた。
「こんな問題もわからないとどこにも受からないわよ」
優しい筈の少女は冷たい声で言うと、黒板の空いている部分に端整な文字で解答を書き込んで席に戻った。
この課題をずっと前に教えてくれたのは少女が通っている塾の講師だ。この教室で教えられた事は一度も無い。
教師はそれをわかっていてわざと優秀な生徒ばかりを指名し、その中に嫌われ者を紛れ込ませるのだ。
そして彼女は知るはずもない問題を前に延々立ち続け、能力の無さを笑う言葉を浴びた後、
「仕方ないな、お前の家は金が無くて塾にも通えないからな。今日も俺がプリントで鍛えてやる」
と家庭の事情を侮蔑する言葉と共に居残りを命じられて席につく。
そしてクラス中の者が密やかに視線を交わし、押し殺したような吐息でそれを笑うのだ。
「私、あの子がくれた硝子を持っているのよ」
桜色の少女は嫌われ者から貰った破片を紅いハンカチに包み、いつもペンケースに忍ばせている。
「硝子の生る木からもいだんですって。綺麗でしょう?」
薄く碧味がかった破片がしなやかな指先に挟まれてキラキラと反射する。
周囲は少女がそれを本気で信じているわけではないことを知っていた。
これは少女が嫌われ者に向ける責めなのだ。最近、皆が忘れかけている“彼女がついた嘘”を忘れさせまいとする責めなのだ。
『ワタシ、アンタノコトキライ』
去年だっただろうか。嫌われ者は少女に向かって淡々と言った。
『私のこと?』
苛めから守り、優しく接する相手にそんな言葉を言われるとは夢にも思っていなかったのだろう。驚きのあまり呆然と問う少女に嫌われ者は頷いた。
余計なお節介だとでも言いたかったのだろうか。
『……そう』
クラス中の者達が見守る中、少女は頬の花を真っ赤に紅潮させながらその場を離れ、それきり嫌われ者を庇おうとはしなくなった。
以来、ずっと少女は破片を持ち歩いては同じ言葉を繰り返し、周囲の者に見せている。

「本当に綺麗な硝子よね」
人気の無い昼休みの屋上で桜色の少女は陽光に硝子を透かしながら溜息混じりに呟いた。
「でぃちゃんもそう思わない?」
「……綺麗」
双子の姉妹はいつも仲が良く、よく一緒に居た。
“あの二人が一卵性ならば、さぞうっとりとした眺めを目にする事ができただろうに”
この学校で姉妹を知る者は皆そう思いながら彼女達を遠まきに見遣っていた。
「もし私が“硝子の生る木が家にある”って話をしたら、クラス中の人が信じたと思うの」
あの醜い容姿が語ったから卑しい嘘になってしまったのだ。美しい者が語ればそれはロマンチックな物語となって聞く者を魅了しただろう。
「こんな綺麗な硝子が本当に生る木があるなら、あの子より私の方が持ち主に相応しいわ」
少女はこの美しい破片がたわわに実る木を想像しながら恍惚の表情を浮かべた。
「でぃちゃんもそう思うでしょ?」
妹は囁きながら姉のスカートをそっとたくし上げた。
美しい掌が姉の腿を滑り、やや内側に比較的傷跡の無い肌を見つける。
きらり、と破片が反射する。その先端は澄んだ色を帯びながら皮膚にプツリと音をたてて刺さった。
「綺麗な子は一人でいいの」
美しい破片は緩やかな軌道を辿り、姉の腿に真紅の線を描いた。
「痛い?」
でぃは首を横に振った。滲んでゆく紅い線は数日をかけて跡となり、彼女の体に新たな“模様”となって刻まれてゆく。
「綺麗なものは綺麗な子が持つべきよね?」
でぃは妹の言葉に頷いた。生後間もない頃の写真には妹と見分けがつかない姿で写っていた姉は、成長と共に個性を持った。
彼女は長い年月をかけて妹が刻んだ“模様”を全身に纏い、そうする事によって満足を得る妹を繋ぎ止めてきた。
自分の姿の醜美などはどうでも良いことだった。妹の甘えるような笑顔を独占するために痛覚などはとうに忘れた。
もしかしたら最初は恐怖ゆえ、妹が与える傷を受け入れていたのかもしれない。
しかし、どんなに記憶を辿ってもその感情は見つからない。憶えているのはただひたすら美しい者がもたらす冷酷な傷に悦びの震えを覚える自分の胸だけだ。
妹は破片に付いた紅を満足そうに見るとハンカチに包み、それで傷口を拭った。
「ねぇ、でぃちゃん」
妹は花の咲いた頬を甘えるようにすり寄せ、天にむかってピンと立つ耳の先に強く歯を立てた。完全な形が残る両耳も、いつかこの美しい妹によって歪にされてしまうに違いない。
「今度は背中に“描きたい”なぁ」
あの美しい破片でこの姉の背中に長い長い傷を描きたい。そこから滲む紅を想うだけで妹はぞくぞくとした悦びに支配された。
「……オ家デネ」
姉妹の戯れは学校でするには目立ち過ぎる。
二人は約束の指切りを交わした。



その夜、町外れをでぃは自転車で急いだ。
親に内緒で塾を休み、人づてに聞いた暗い道を息を切らせながら進む。
そこかしこに小さな祠や傾いた石神のある地は街灯すら無く、木々も草も無造作に生え、湿り気と沈殿したような独特な空気が蔓延している。
時折どこかから酒に酔った者の呻き声が聞こえ、薄暗いあばら家の軒先から通り過ぎるよそ者をジロジロと窺う視線に出くわす。
日没後に少女が一人で出歩くような場所ではない。
その中をでぃは急いだ。あの美しい硝子の事を嫌われ者に聞くために。
湿った土が覆う小さな畑と背の低い百日紅の間を抜けると、吹き付けのざらざらとした外壁の平屋が数件ある。近くに地主の大きな家が誇らしげに構えられ、この小さな貸家の群れをなおのことみすぼらしく見せている。
その中の一軒があの嫌われ者の住む家だと聞いている。
どの家も表札など出してはいない。この辺りの者はまるで世間の目を避けるようにひっそりと住んでいる。
しかしでぃにはあの嫌われ者の家がどこであるのかすぐに判った。
あの醜い毛並みが自分の来訪を知っていたかのように玄関先に立って待っていたからだ。
「教エテ」
自転車を止めたでぃが肩でする息の下から搾り出した声に、嫌われ者は数個の美しい硝子の破片を差し出した。
やはり彼女もまだ持っていたのだ。
「ソノ硝子、ドコデ手ニ入レタノ?」
嫌われ者は硝子のような透き通った目ででぃを見詰め返した。
「ガラスノナル キ」
「馬鹿言ワナイデ!」
でぃの声が暗い砂利道に響いた。
しかし嫌われ者はそれに動じる様子も無く、やにわにでぃの手を引くと庭へと続く犬走りを歩いた。
庭と言っても毎年勝手に花開く自生の紫蘭が咲いている他は雑草と土ぼこりと物干し台しか無い場所だ。
その庭に面したニ間ある出入り窓の奥側が開かれる。さらに障子も。
「!」
でぃの目に部屋いっぱいに枝を広げる美しい木が映った。
その幹は青緑の色をつけ、枝先に向かって段々に薄らいでいっている。
窓から入り込んだ風がその枝先に下がる美しい玉を揺らし、ぶつかりあうそれらが涼やかな音を立てた。
こんな美しい木を見た事が無い。
この木を持ち帰ったらあの美しい妹はどんなに悦んでくれるだろうか。
そう考えるだけででぃの唇は震え、知らず知らず大きく繰り返す吐息が熱を帯びた。
「……頂戴」
「コノ木ヲ頂戴」
「ダメ」
予期した答えだった。
硝子の生る木は本当にあったのだ。この醜い、嫌われ者の家に。
木はだいぶ大きなもので、少女一人が運ぶことはできそうにない。だからこの嫌われ者は学校に持ってこられなかったのだろうか。
それならそれでこの家にクラス中の者を呼んできて見せれば良かっただろうに。そうすれば彼女が得ていたものは嘘つきで醜い“嫌われ者”という称号ではなく、羨望だっただろう。
硝子の生る木はそこはかとない光を放っているようだ。
灯りを点けない真っ暗な部屋の中で月光のような光を放っている。
「…………」
よく見ると、沢山ついている実の中で何かが動いている。
でぃはそこが他人の家であることも忘れて入り込み、手近に下がる実に目を近づけた。
硝子の実は様々な形をしている。
丸いものもあれば楕円のようなものもある。細長く、先端に触れると指を突いてしまいそうな鋭いものもある。
しかし一様にその実は内側に空洞を持ち、中に生き物が動いている。
でぃは嫌われ者が無言で指差す一つの実に目をやった。
実はシャンデリアの細工のように細長く、水晶を逆さにしたような美しい形をしている。
その中に実の美しさに全く相応しい、美しい妹の姿があった。
妹は姉の知らない場所で見た事のある腕に包まれていた。

「ねぇ、先生」
桜色の少女は車のシートを倒す男に囁いた。
「塾が終わる筈の時間まではまだうんとあるわ」
「知ってるさ」
暗がりに停めた車の中で二人は守るべき理性や良識に背を向けている。
背徳の味の虜になってしまった教師は花に顔を近付け、甘く毒性の強い香りに目を細めた。
「じゃあどこかに連れて行って」
「でもなぁ……誰かに見られたらまずいんだからな」
少女は自分を見下ろす男の肩を押し、身を捩って嫌々をした。
「仕方ないなぁ」
男は溜息をつくと目の前の蜜を頬張ることを諦め、挿したままの鍵を回した。

硝子の実には美しい妹の姿が鮮明に浮かび上がっている。
車の助手席で服の体裁を整え、隣に座る男の腕に自らの腕を絡ませている。
実が見せる幻覚に、でぃは激高した。
あの美しい腕が甘えるのは自分だけで充分だ。それが例え絵空事だとしても赦すことなどしたくはない。
数多ある実が風に吹かれ、耳にコロコロという軽やかな音を残す。でぃはその音の中に一人の男の姿を収める実を見つけ出した。
男は片手でハンドルを握りながらもう片方の手で桜色の腕や頬を愛撫している。

カシャン

でぃの手の中で硝子の実が音をたてた。
細かく砕けた破片が掌に突き刺さり、美しい妹を悦ばせる紅い血が滴る。
「…………」
嫌われ者は実を砕いてしまったことを責めるでもなくじっとでぃを見詰め、ややあって視線を逸らした。そして先ほどの美しい、水晶のような実のすぐ傍に下がっている歪な実にそっと手を添えた。
実は青白い光を放ちながら成長を始めた。
その中に嫉妬に手を紅く染めるでぃの姿がある。
成長した実が風に煽られ、水晶の形のそれにぶつかる。美しい実は衝撃に先端を欠かれて鈍い音をたてた。
でぃは逃げ出した。
硝子の実を砕いてしまった罪悪感からではない。何かもっと抑えようのない不安に居たたまれなくなったのだ。

「お友達かい?」
硝子の生る木は一人残された娘に訊いた。
娘はその問いに頷き、青緑色の幹を覗き込んだ。
「マタ、ミガソダッタネ。オトウサン」
「ああ」
木がゆっくりと身じろぎをした。
「お前が沢山養分を吸ってくれるおかげで私はいつも満たされているよ」
硝子の生る木は醜いものを養分に美しい実をつける。その養分を吸う根の役割をしているのは外を出歩く娘だ。
「モイデイイミハ?」
「今日は無いよ。ああ、満足だ」
窓から差し込む月の光が美しい実に映えている。涼やかな音が庭先を通り抜け、欝蒼と茂った木々の中に消えて行った。



一人の教師が永遠の眠りについた。
車の運転中にハンドル操作を誤り、対向車線に飛び出したのだ。
同乗していた者は足を失い、嫌われ者はいつのまにか田舎町から姿を消した───


                                  終

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