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プラネタリウム

もうすぐ夏が来る。
夏は大嫌い。暑くて、汗でベタベタする。
草が日焼ける匂いは心地良い。けれどやっぱり夏は嫌い。
電車を降りて駅前商店街を抜ける。その先はお店が急に少なくなっていて、もっと行くと歩道の無い道を車に追い越されながら歩く。目指しているのはプラネタリウム。
昔、しぃちゃんと通った田舎のプラネタリウム。
今日は暑いけれどいい天気で、あの頃みたいにアイスキャンディーを食べながら歩くにはちょうど良いだろう。私達はいつも冷たいソーダ味をかじりながらここを歩いた。
「文化祭に使うドーム、早く作らなくちゃ」
真面目なしぃちゃんは夏になるといつもそう言って焦っていた。
先輩が作って残してくれた穴あきの地球儀。私達はその中に電球を入れて映し出し、毎年プラネタリウムを作る。
星が好きなしぃちゃんに半ば強引に連れて行かれた地学同好会。
放射状に塩ビ管を組んで大きな円に固定する。そこに針金を縦横に細かく渡し、内側に張った布を外から針と糸ですくって止めて針金に沿わせながら半球形に張ってゆく。
暑い部室で貧血を起こしながら作ったいびつなプラネタリウムは、たった二日間だけ沢山の人で賑わった。
発光ダイオードを仕掛けた夏の大三角も、先端が光る説明用の差し棒も、石鹸箱を使った「東西南北」の案内ライトも、試して失敗して悩んで笑って作ってた。
あの頃の私達は、こんな日が来るなんて思わなかった。
ねぇ、こんなに暑いと今日は雷が鳴るかしら?


トラックが通る度に排気ガスが熱風になって吹き付ける。
私達はそれを避けるように青リンゴのコロンをつけたハンカチをマスクのように顔にあてていた。
あのコロンはもうどこにも売っていない。けれど息を吸う度に香った粉っぽくて甘いリンゴの匂いは覚えている。
スピードを緩めないトラックがすぐ側を追い越してゆく。 ハンカチを口元に当てると香水がうすく香る。私達はいつからあのコロンを使わなくなったんだっけ。 卒業するとしぃちゃんは家出を繰り返すようになった。
ウチにも泊まりに来ては一晩中お喋りをしたりお菓子を食べたりして笑っていた。
いつからか、しぃちゃんはウチに来ても黙り込むようになった。大好きでよく食べていたお菓子の悪口を言い続ける日もあった。
そして何日かすると急に居なくなって、ずっと長いこと連絡が取れなくなる。
そしてまたひょっこり「泊めて」と現れる。
しぃちゃんはよくお母さんに怒られて「家には居場所が無い」と言っては友達の家を泊まって歩いた。
あの頃の私は子供で鈍感で無神経だったから「こんな事ばっかりしてるから怒られるんだよ」と偉そうに自分の考えを押し付けていた。
そんな時、しぃちゃんは悲しいくらいに透き通った目で私を見詰め、暫くすると「ごめんね」と呟いた。

ある夜、彼女から一枚のCDを貰った。
包装紙で作った袋の中に、モノトーンの写真がついたCD。
同じものをもう持っていた私は「持っているから自分用にしなよ」と言ってそれを返した。
その頃の私はそのCDに入っている歌が大好きで、朝も昼も晩も暇さえあれば聴いていたから一人でも沢山の友達が聴いて好きになってくれればいいな、と思っていた。
翌朝、しぃちゃんはCDを置いたまま出て行った。今日みたいに暑い日だった。
目を覚ますと走り書きが机の上に置いてあって、私にCDを持っていて欲しい、と書いてあった。
だからCDは今でも2枚、棚に並んで置いてある。


二十歳になった私達が「同窓会をしよう」という話になった時、しぃちゃんは久しぶりに皆に連絡をして張り切っていた。なのに当日、彼女の姿はどこにも無かった。
一人で幹事をする事になってしまったつーちゃんは「急に連絡が取れなくなった」と言って怒っていて、皆でしぃちゃんの話をした。
いつも夏になると誰よりも先にプラネタリウムの用意を気にしていたしぃちゃんが、皆が怒っているように無責任に振舞う筈が無い。悪口が交わされる輪の中で、私は愛想笑いを浮かべながら思っている事が言えずにつまらない時間を過ごした。
しぃちゃんはまだ家出を繰り返しているらしい。
同窓会の連絡をした友達に、宝石や毛皮や着物の展示会に誘ってしつこかったらしい。
お家からずっと離れた都会の駅の階段で、裸足で座り込んでいるのを保護されたらしい。
家に連絡したらお父さんが迎えに来て、連れて行かれたらしい。
電話をしてもお母さんが「今は家に居なくて、連絡がつかない所にいます」と言うらしい。
聞きたくない。
聞きたくない。
聞きたくない。
あの暑い道をアイスキャンディーをかじりながら一緒に歩いたしぃちゃんがそんなになってしまう筈がない。
それは上手に「東西南北」をカッターで切り取れなくて、石鹸箱を7個も使って笑っていたしぃちゃんじゃない。
「そんな子だったなんてね」
皆が簡単にあの頃の彼女を否定すると、何故か無性に悔しくて、不安になった。

同窓会から二ヶ月が過ぎたある日、一通の手紙が私の元に届いた。
小さくて薄い緑色をした2枚の便箋に、同窓会に行けなかった事を何度も謝るしぃちゃんの字が並んでいた。
「調子を崩して病院にいます。真っ白でとても静かな所です」
「同窓会を放り出してごめんね。病院に居て連絡ができなかったの」
「皆怒ってるよね。謝りに行きたいけど今は外に行けないの」
「私を受け入れてくれる人達が、救世主と呼んでくれるから行かなくちゃ」
小さな便箋を手にしたまま、私の手は震えた。
ねぇ、しぃちゃん。悲しいほど透き通った綺麗な目で、あなたは何を見ていたの?
胸が詰まって、息苦しくて、痛くて、切なくて、手紙の最後に書かれた文字が滲む。
「ずっと友達でいて下さい」
私はその時初めて、しぃちゃんが家族ではない何かに寄りかからなければ自分を保てなくなってしまっていることを知った。


しぃちゃんとはそれから一度も会わずに半年が過ぎた。彼女がどこにいるのかもわからなかった。
8月の始めに大好きな彼と旅行に出かけた。三日間だけの海辺のホテル。
出発の日の朝、とても元気だった私は目的地を前に急に熱を出した。背中に何かが這っているような感じがして体に力が入らなくて、優しい彼はとても心配してくれた。
その日はとてもだるかったのに夜になっても眠れず、私は一晩中真っ暗な海から聞こえてくる波の音を聞きながら起きていた。時折鼻歌まじりにあのCDの曲を思い出したりしながら。
夜明けの海が薄紫に光りはじめると、体は何もなかったように元気を取り戻していった。
薬が効いたのだと思った私達は残りの二日間を楽しんで過ごした。

帰宅した私を待っていたものは、沢山の件数の留守番電話。
何人もの友達からのメッセージが入っていて、その全てが私に「しぃちゃんが亡くなった」ことを教えている。
信じられなかった。
信じられないのには理由がある。
あちこちに電話をして聞いた話は「看護士になったのーちゃんの勤めている病院の先生の知り合いで、他の病院に勤めている先生がしぃちゃんの事を教えてくれた」ということだった。
解らない。どうしてよその病院の先生がしぃちゃんの事をのーちゃんに知らせたの?
同名の間違いじゃないの?
そんな話を聞かされても、しぃちゃんが亡くなったなんて受け入れられない。
間違いであって欲しい。そう思いながら意を決してしぃちゃんの家に電話をすると、お母さんがいつもの調子で「今居ません。連絡もつきません」と冷たく答えた。
私はそれを心配して集まってくれた皆に話した。
するとのーちゃんととても仲の良い子が物凄く怒りだした。
「しぃちゃん家に電話なんかしてどうするのよ?」
「だって知り合いでも何でもないよその病院の先生がしぃちゃんの事をのーちゃんに知らせる、なんて不自然な話信じられないじゃない」
「死んだって言うんだから、死んだって思えばいいでしょ?」
私は初めて友達の頬を叩いた。
“死んじゃったんだって”
“ああそう”
私達はそれで終わらせられる友達なんかじゃない。少なくとも私はそう思っていた。
皆の悪口を止めることもできなかったけれど。
側で支えてあげることもできなかったけれど。

「ずっと友達でいて下さい」

間違いであって欲しいと願って、どうしても確かめたかった。
蒸し暑い夜、おずおずとCDを持つ姿が最後に見たしぃちゃんだった。
しぃちゃんはあの手紙をどんな気持ちで書いたのだろう。真っ白な、とても静かな所で。


熱風が草の匂いを運んでゆく。
強い日差しを浴びながら歩く私のスカートを大きく膨らませて通り過ぎてゆく。
遠い空に大きな雲が迫るように立ち上がっている。こんな空の日の夕方にはいつも雨に降られて走って帰った。
歩く私の数メートル先を、雨の匂いが好きだったしぃちゃんが頭の上にカバンを乗せて振り返り、消えてゆく。
思わず立ち止まった私の目の前には、熱気でゆらゆら揺れて見える灰色の道だけが伸びている。

迷った末、のーちゃんに会って話を聞いた。
「私の為に気い遣はったんやなぁ。そんなん、せんでもよかったのに」
のーちゃんは気を悪くする事も無く、全部を話してくれた。
知り合いの先生という話はのーちゃんの立場を気にした友達が気を遣って付けたらしい。
私が叩いた子だ。彼女は彼女で友達を守りたかったのだろう。
しぃちゃんはのーちゃんの勤めている病院に入院していた。病棟は違っていたけれど、バッタリ廊下で会ったのだという。
のーちゃんの同期の子がしぃちゃんの入院している病棟に居て、しぃちゃんが心臓の発作を起こして倒れ、そのまま逝ってしまった事をのーちゃんに教えに来てくれたそうだ。
のーちゃんは「あっという間の事で、きっと本人も何が起こったのか解らんうちに逝ってしまったやろなぁ」と話してくれた。
私は心の片隅で否定してきた事を認めなくてはならなくて、それでもしぃちゃんが苦しまなかったという事に少しだけ慰められた。
しぃちゃんはお父さんが引き取りに来た。のーちゃんはそれに立ち会っていた。だからこの話は本当に起こった事で、一片の悪夢や勘違いが見せた幻なんかではない。
これはうんと後になってから知ったことだけれど。
お母さんがお兄さんばっかりを愛して、しぃちゃんは無視をされたり、ご飯を食べさせてもらえなかったりした事がよくあった。
流星群の観測が雨で中止になった日に、帰ったら鍵が閉められていて開けてもらえず雨の夜に2階までよじ登って窓から帰ったこともあった。
他にも色々な話を聞いた。
私はそれを聞きながら、家族が悲しみながらしぃちゃんを見送った事を心から願った。
私達はしぃちゃんを見送っていない。
さよならが言えないまま、私の手元には預かったCDと手紙だけが残っている。
神様、しぃちゃんは幸せだったでしょうか。
神様、短い命の行き着く間際に出会ったしぃちゃんの神様は、彼女を幸せにしてくれたのでしょうか。
どうか、どうか、しぃちゃんの心が救われていますように。彼女の信じた神様が、彼女の望みどおりの安らぎを与えて下さっていますように。

ふと、思い出したので私は帰り際にのーちゃんに訊いた。
「しぃちゃんが亡くなったのって……8月3日の午前11時ごろ?」
「何で知ってはるの?」
驚くのーちゃんに私は曖昧な微笑を向けた。私が急に熱を出した時間だ。
しぃちゃんはお別れを言いに来てくれていた。
私達は一晩中一緒にいたのだろう。二人で寝ずにお喋りをして過ごしたあの夜みたいに。


埃っぽい道を早足で歩く。背中が汗ばんでいる。
二人で行ったプラネタリウムの丸い屋根が、強くなってきた日差しを反射して白く光る。
私は片手に小さな封筒を持ち、閑散とした回転扉へ向かった。

“ずっと友達でいて下さい”

もうすぐ夏が来る。

あとがきはありません。

http://1st.geocities.jp/okayanoiyo

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