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盲雨



           メクラアメ メクラアメ
           メクラアメ メクラアメ

           愛した男が帰らない
             奥方は雨に寄り道
           学生は蛙に騙された
             娘は雨から出たくない
           想い人の全てを攫うは
           
                  憎らしや





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 氷のように冷たい雨があまり大きくない一つの村を覆っていた。
 温かい気温とは裏腹のつめたい雨は、止まることを知らず、誰かを呼んでいるかのように降り続いていた。

 低い読経が黒い小さな家を包み込む。ゆらゆらと揺れる湿気を含んだ線香の煙は、遺影の前をゆっくりと通り過ぎ、天井に到達する前に消えていく。
 黒漆で出来た大きな仏壇は悲しみと大きな威圧を身にまとっており、尋常では無い存在感を宿し、部屋の半分程度を陣取っていた。
 住職は経の最後の文を読み終わると、丁寧に後片付けを始めていく。葬式に慣れているのだろう、顔には長年の経験から作られた偽りの悲しみが張り付いていた。
 葬式は終わり、雨が屋根を叩きつける音のみが部屋にはある。そして、その雨音に紛れるように村人たちは噂話を続けていた。

「池の底から白骨死体で出てきたんでしょ? ギコ君」
 元々小さな部屋ということもあり、その噂話は否でも俺の耳に入ってくる。其れは俺にとっても心地の良いものではなかった。
「どうもそうらしいんですよ。行方不明になってからもう三年」
「恐ろしい事になったものだ」
 悪気はないのだろうが、無駄な好奇心は他人の心の中に土足で入り込むこともある程危険なものだ。
 俺の耳にも入ってくるということは勿論俺の隣にいる彼女――
「つーちゃん! あのお兄さんの事、あの、大変だったな」
 つーにも聞こえていただろう。彼女は青ざめ、組んだ小さく華奢な指を見つめているだけだった。
 その姿は何時も他を圧倒する輝きはない。陰鬱な雰囲気が彼女から発せられ、隣にいる俺もその雰囲気に影響されてきていた。
 綺麗に整った姿勢も今は威厳を失くし、楽しげな笑みを浮かべている口元も、今は悲しみに支配されていた。
 噂話を始めた張本人達は俺たちが現れたのを見、決まりが悪そうに口をつぐんだ。流石に、喪主の目の前で無神経な噂話をするほど、常識のない人たちでは無いのだろう、
 痛いほどの沈黙が続く。喪主であるつーは体中を震えさせ、悲痛な思い出から逃げ出そうとしているのだろう。俺は慌てて、言葉を絞り出す。
「俺、なんていったらいいか…」
 彼女は俺の言葉に反応したのだろうか、それとも、悲痛な思い出から逃げ出すためだったのだろうか、彼女は今にも消えそうな声でつぶやいた。
「…盲雨≠セ」
「え?」
「兄貴だよ。あの時もひでぇ雨が降ってた。メクラアメに攫われたんだ」
 呻くような声だった。心から放ったその言葉は強い力を持っていたが、その強い力も、先ほどから降り続いている雨音によって静かに溶けていった。
 雨音は未だに続く。力を込めた両手が真っ白に変色し、彼女の大きな黄金色の眼に大粒の涙が溜まっていく。其れは段々と量を増していき、それと比例して体の震えも大きくなっていった。
 唇は震えるように動き、肩は震え、足もおぼつかない。突如、彼女が俺の方へと顔を向けたとき、黄金色の眼に溜まっていた涙が溢れた。其れは幻想的に宙を舞って、畳にしみをつける。
「あの女が兄貴をたぶらかしてあの世に連れてっちまったんだ!」
「つ、つーちゃ…」
「あんなに『つれてかないで』って…頼んだのに…!」
 体中の震えが、言葉になった瞬間だった。彼女の体は大きく傾き、俺の肩に顔をうずめ、泣き崩れる。時折彼女はしゃくりあげ、しかし、泣く勢いはとどまることを知らず、いますぐにでも壊れてしまいそうな程に彼女は儚く見えた。
 儚き俺の夢。其れは目の前で泣き崩れている。俺はゆっくりと彼女の肩を抱く。小刻みに震える彼女の体は脆く、少しでも力を入れれば、その場から消えてしまうのではないかと思うほどだった。
 葬儀に訪れた町人たちも、帰りの支度をしている住職も、手伝いに来ていたつーの親戚であるのーちゃんも、皆、可哀そうな喪主である、つーを見つめていた。
「つーちゃん…」
 彼女は未だに泣きやまない。次から次へとあふれてくる彼女の涙は根強く降り続いているこの雨と似ていた。
 俺は少しだけ、彼女を抱く力を強めた。


――五年ぶりの池掃除の日だった。

 数年に一度は最低池掃除をやるのだが、ここ数年やけに大雨が降り続け、池掃除をする暇がなかった。そして、数日前、晴れ間を選んで村の若者たちが池の水をさらい、泥で詰まった水門を洗った。
 
 そして、池の底で見つかったのが、行方不明になっていたギコさんの骨だった。

 何故池の底で死んでいたのかは未だにわからない。

 ギコさんは三年前から行方不明になっており、家は妹であるつーちゃんが一人でずっと守っていた。


 盲雨は、引き裂かれた男女が迷って抜けられなくなる雨だと言われている。

 暗闇から消えたかたわれが相手を呼ぶ

 そしてそれに応えると、応えた方は”向こう側”へ行って

 二度と帰ってこないそうだ。



 ああ、君は……。
 お兄さんの事、大好きだったもんな。
 彼女の涙でぬれた肩は外の雨より暖かい。だが、悲しみに支配されているのは変わっていなかった。
 未だに俺の肩で涙を流している彼女を見て軽いめまいに襲われる。彼女の涙は勿論俺になんて向けられていない。向けられているのは亡くなってしまった――無残な姿で見つかったギコさんに向けられている。
 心の中でそう納得させるも、彼女は俺の心をとらえて離さない。彼女が好きなのは多分俺じゃなかった。俺ではない誰か。

 だけど、俺はつーちゃんが好きだった。其れは彼女の脆い姿を見た今でも変わらない。
 俺はつーちゃんが好き。そう、気 が お か し く な る ほ ど に。

 今まで心の奥底に封印されていた気持ちが火山のように沸々とわき起こる。俺は湧き上がる感情を抑え、彼女を見つめていた。



―――― ザアアアアアアアア…。


 
 雨音が強くなっていく。其れは誰にとっても好ましい事では無い。私も、これ以上雨が強くなってしまっては、帰りのバスに乗れなくなってしまうかもしれない。
 部屋の片隅に置かれた柱時計に目をやってみると、もう既に夜の七時を回っていた。雨の所為で今日はとても暗いのだから、これ以上長居したら、今夜はここで泊まることになるかもしれない。
「おや、雨が強くなってきましたね…」
「私たちはそろそろ…」
 葬式というものは嫌いだ。非常に気まずい雰囲気に、どっしりと重量が増す空気。仏壇が醸し出す不気味な威圧感は其処にあるだけで、私達に不安を感じさせる。
 そして、目の前では喪主である妹が泣き崩れていた。其れを支えているフサ君も、何の光を持っていない眼差しで、仏壇を睨んでいた。
 空気に押しつぶされるような感覚が体中を覆う。痛いほどの沈黙が部屋を支配する。息ができなくなるほど緊張している部屋。そして、雨音、雨音、雨音、雨音。
 
―――― このままだと私も連れて行かれそうだ。

 昔ギコ氏と面識があった私の友人であるモナーも、苦い顔をしながら、その場の光景を眺めていた。
 陰鬱に包まれている部屋、泣き崩れる妹御、叩きつけるように降る雨、重々しい空気。
 私はやっと足を動かした。手伝いに来たというのーは私達を玄関まで送ってくれた。
「ああ、モナーはんもモララーはんも、雨が強ぅなってますさかいに、お気をつけて」
 奥から聞こえるすすり泣きに一瞬足を止めそうになったが、傘立てから紺の傘を引き抜き、差す。
 後ろを振り返ってみれば、小さな家は雨に気に入られたのか、雨に抱かれているように黒く存在していた。

 夜と雨の闇に支配された道は暗く、じめじめとして何度も足を取られそうになる。
 友人であるモナーはすぐ隣に居るはずなのに、油断すると、彼自体が雨に変わってしまいそうな雰囲気がある。
 私は彼を見失わないように気をつけながら、抜かるんだ道を歩く。
「…それにしても、良く降りますね」
 彼の姿を確認するために、声をかける。多少震えたような声になってしまったのは、多分、この雨と夜の暗さ故だろう。
「そうですね。じとじとじめじめして食べ物も腐りやすいし薄暗いし」
「僕達も気をつけないと攫われちゃうからな」
 雨はやむ気配など見せず、唯ずっと振り続けていた。地面に恵みを与える様な輝きを持った雨では無い。
 他人の悲しさや陰鬱を滲みこませたような雨は未だに私の紺の傘と大地を濡らしていく。
 モナーは歩く速度を少しずつ落としていく。私の事を気遣ってくれたのだろう。だが、彼の姿は未だに不明瞭に映る。雨自体が彼の姿をぼかし、輪郭のみ識別できるようにしているようだ。
 
「盲雨≠ネんてのはね、要するに人の心の惑いを例えたものなんですよ」
 モナーが徐に口を開く。黒い雨に激しい雨音の所為で、彼の輪郭すらぼやけていく。雑音のように聞こえる彼の言葉は少し、聞き取りにくかった。
「”迷わない”と思っていれば捕まらないものです」
「またまた」
 雨の勢いが強くなってきている。
 引き裂かれた男女が迷って抜けなくなる雨。


――――…盲雨≠セ。


「そもそもウチらは盲雨なんて見た事無いじゃないですか」
 私は漆黒の夜に向かって鼻で笑う。
 盲雨なんてものは見た事がない。其れが普通の雨なのか、それとも、今降っている様な陰鬱に包まれた雨なのか……。
 盲雨。この村に伝わる伝説。引き裂かれた男女が迷って抜けなくなる雨。
 所詮伝説。本当に実在するのかも疑わしい。私は、モナーが居るはずの闇に目を向ける。
「もしかしたら本当に雨が人を攫うのかもしれませんよ」
 モナーの輪郭をした闇は喉を鳴らすような笑い声を出す。其れは、普段の彼の笑い声とは全く違ったので、一瞬寒気が背筋を走った。
「ギコ君を攫ったのは果たして誰なんでしょうねぇ…」
 バス停までの道のりは闇と雨によって歪み、私達を惑わせているように見えた。


―――― シトシトシトシト…


 目の前の彼女は幾分落ち着いたが、未だに肩を落とし、目を赤くはらして、座っていた。かける言葉が見つからず、俺は唯、彼女を見つめていた。
 参列者ももうほとんど帰ってしまい、この家にいるのは俺と、つーちゃんとのーちゃんだけになった。部屋は押しつぶされそうな程に重い空気が漂っていた。
 参列者たちが帰った故か、部屋は痛いほどの沈黙と息苦しさに包まれていた。
「つーちゃん……」
 俺が彼女の名前を呼んでも、彼女は顔を上げないで、ずっと畳を静かに睨んでいる。
 青ざめた顔は死人のように暗く、生気や輝きが全く感じられない。でも、そんな彼女が愛しかった。
「もし、つーちゃんが辛くなかったら、話し訊いても良いか」
 生気の失せた瞳を彼女はこちらに向けた。其れと同時に顔も上げ、青ざめた表情を俺に見せる。
 そして、糊づけされたように固く閉じていた唇をゆっくりと開いた。
「あの女の辺りか」
「そう」
 俺は首を縦に振って頷く。彼女はまた畳に視線を落とした。肩は未だに多少、震えていた。
「俺が話すと長ーぞ」
「いいよ。一晩中でも訊くから」
 時間なんてものは惜しくなかった。彼女と一緒に居られるなら、彼女の話を聞けるのなら、永遠に彼女と共に居ることだって――出来るんだ。
 彼女を思う静かで、激しい思い。其れは閃光のように俺の頭を一瞬、支配する。雨音が静かに部屋の音を消していく。
 彼女の瞳に大粒の涙が再び溜まっていく。部屋の電灯を受けて綺麗にきらめく其れは、彼女の瞳からゆっくりとあふれ出て、零れる。
 狂いそうなほどの激情。それは彼女を求めてやまない。いくら彼女を愛しても、いくら彼女を求めても、絶対に彼女は――。
「オレは、あの女が、憎い。ひでぇこといっぱい考えてる。きっと、オレのこと、見捨てたくなる……」
「ならない!!」
 ボソリとつぶやいた彼女の言葉。其れを俺は大きな声を張り上げて否定する。
 反射的に彼女は俺の方へと顔を上げ、瞳に溜まっていた雨を畳に降らす。幻想的で一瞬意識が飛んで行きそうになる。
 俺は彼女に少しでも近付こうと彼女の方へと膝を詰める。
 もっと……もっと近くへ。
「俺が」
 ゆっくりと手を彼女の指へと伸ばす。細く長い華奢な指。
「俺がつーちゃんを見捨てるわけないだろ…」
 呟きながら、彼女の華奢な指に俺の手を重ねる。
 触れた指は多少冷たく、それでも、ほのかな熱を帯びていた。だが――

―――― バシィ!

 突如やってくる鋭い刺激。其れは一瞬の鋭さを持っていたが、やがて鈍さに姿を変えていく。
 俺は呆然としながら俺の指を見、彼女の顔を見た。青ざめた顔、震えている唇、鋭い視線……。
「………やめろ、気持ち悪い」
 悲しみに沈んでいる肩、驚きで震えている唇、そして、俺に向けられる嫌悪。
 悲しみより深く、驚きより大きい感情。それが、俺に向けられている。
 ああやはり、彼女が好きなのは、君の心に居るのは、俺じゃないのか。
 やめてくれ。そんな視線は俺には耐えられない。視線に耐えきれず、俺は叩かれた指を見つめた。
 
 どうしようもないこの気持。だが、それは嫌悪という盾で跳ね返されてしまう。どれだけ彼女にこの気持を向けたとしても、彼女の心に響くことはない。
 
 俺は君が誰よりも好きなのに。

               だが、君は俺を見てくれない。

 俺の心に居るのは君だけなのに。

               君の心に居るのは俺ではない誰か。

 嗚呼、つーちゃん。
     お 前 の 心 の 中 に 居 る の は 一 体 誰 な ん だ?

 小さく震える膝、自分の手を抱くようにしている君。それら全てが俺を幻惑させて……。
 ……いかんいかん。
 心の奥に宿った狂いそうな思いと、若干の憎悪を心の底から投げ出すように俺は首を小刻みに震わす。

「悪かった。続きを聞かせてくれよ」
 彼女は未だに嫌悪で光った瞳を俺に向けながら、俺を見返した。




――――――ザァァァァァァァ




 フサの顔を見、俺はゆっくりと頭の中で秘められている記憶を沸き起こす。
 雨は未だに降り注いでいる。雨は悲しいから嫌い。雨は俺と兄貴の思い出を厭でも蒸し返すから。
 俺は、フサを払ってしまった手を静かにさすりながら、頭に焼き付けられた記憶を話す。あの日の記憶。

―――――― 雨の記憶。

「兄貴は生きていた頃、近所の後家さんと出来ていたんだ…」

 その女の旦那は死んでたのかどうかわかんなかった。いなくなっただけだったから。
 兄貴が勝手に後家さんだって決めつけたんだ。
 兄貴は毎日決まって彼女の家に行って、庭いじりをしている彼女を眺めていたんだ……。

「学生さん。さっきからご覧になっているようですけど何か御用かしら?」
「え? あ、ああ違うっす。庭です。庭を見ていたんです。綺麗だなと思って……」
 兄貴は後家さんをずっと見つめていたらしい。だけど、あの女はそれに気づかなかったらしい。庭の手入れをしていたのだから、それも当然だけど。
「…綺麗だなと思って」
 勿論、綺麗の対象は後家さんさ。兄貴は必死で繕ったらしい。会話をしたのは初めてだったんだろう。
「若いのに庭が好きなんて珍しいひとね……」
 後家さんは微笑みながらそう返したそうだ。兄貴はきっと、かなり心拍数をあげていただろう。
 その人は、かなり年上だったんだと思う。兄貴には関係なかったんだろうけど。
 それから兄貴は、晴れた日には女の庭に通い詰めていた。


「あれは絶対未亡人だ! そうに違いねぇ!」
 兄貴が居間で一人拳を握り締めながら叫ぶ。その叫び声にはいつもとは違う覚悟が宿っていたから、俺は多少いらつきを覚えた。
 雨が数日続いていた時だった。兄貴は何時も俺と一緒に居た。その時だけが幸せを感じる事が出来たんだ。
 俺は茶を居間に運びながら、兄貴を見つめる。曲った背筋に空を思い浮かべるほど澄んだ蒼い毛並。
「アヒャ。馬鹿兄貴がとち狂いやがったな」
 俺は嘲笑しながら、兄貴に茶を渡す。濁った緑茶を兄貴は何かブツブツ言いながら、ゆっくりと口に含む。
 そんな姿を見ながら、何かに取りつかれたような顔をしている兄貴に向かって一昨日も言っていたセリフを口にしてみる。
「ああ、今日は災難だ。何故雨が降る。彼女の庭にいけない。ってか」
 茶を飲んだ後に吐き出された兄貴の溜息は、驚きに満ちていた。顔をこちらに向け、真剣な表情をしながら、俺に問う。
「なんで分るんだ?」
 図星か。目を大きく見開き、驚きという表情をあらわにしながら俺の方へと向く。あまりにも純粋すぎる兄貴の行動に思いっきり笑いだしそうになった。
 だが、俺は澄ました顔を保ちながら、言う。
「一昨日も同じ事言ってたぞ」
 兄貴はむっとしたように顔を歪め、俺から視線をそらして、また緑茶に手を伸ばす。ゆっくりと口に入れるさまを見ながら、俺は兄貴を下からのぞきこむ。
 兄貴に詰め寄る。兄貴の隣は俺の席。他の誰にも譲らない。此処は俺――兄貴の家族である俺だけが座るに値する位置なんだ。だから、俺は誰にもこの席を譲らない。
 不機嫌そうに顔をゆがめながら兄貴は茶を啜る。その音はまるで、兄貴の心情を映しているようで何となく、苛立つ。
「だってよ。何もない庭に行くなんておかしいじゃねえか」
 右手に茶碗を持ったまま、兄貴はボソリとつぶやく。俺はずっと兄貴のそばに居たい。心の中で沸き起こる感情。其れは一瞬俺の表情を変える。
 ああ、ずっと雨が降っていればいい。そうすれば、兄貴はずっと俺のそばで――。
 あの女なんかの所なんて一生行かなくていい。俺と一緒にずっと居て欲しい。雨音に抱かれた家。そして、俺と兄貴はその中でずっと一緒に。
「兄貴は庭が好きなんだろ? 庭だけ見に行けよ」
 俺は兄貴に意地悪してみる。もちろん、俺は庭だけ見に行かせるために言ったわけじゃない。
 あの女なんかいなくても、此処に俺が居るのに。兄貴は遠くを見つめる顔になって、茶を一気に飲み干し、言った。
「あんまり余計なこと言わすなよ…」
 俺は兄貴の背中にもたれこむ。温かい兄貴の体。じんわりと伝ってくる体温は、とても心地良かった。そうだ、兄貴は今、俺の物なんだ。あの女の入り込む余地なんて、無い。
 雨の日はあの女のことなんて考えなくていいんだ。雨の日だけ、兄貴は俺の物になるんだから。
「目を覚ませ。相手は人妻だぞ」
 俺は顔を兄貴の背中に押し付け、そっと呟く。
 兄貴は暫く何も答えなかったが、茶碗をずっと握りしめていた。微かに震える兄貴の背中。ああ、雨がこのままずっと振り続いてくれればいい。
 あの女のことなんて忘れてしまえばいいんだよ。兄貴。
「大体旦那だって本当に死んでんのか?」
 無理やり話しを繋げる。兄貴は今、あの女のことでも考えているのだろうか、暫く硬直して動かなかった。
 どうして兄貴はあの女のことばかり考える? ここには俺と兄貴しかいないのに。今の兄貴は完全に俺の物なのに。でも、兄貴の心の中に居るのは――。
 俺は兄貴のことしか考えられないのに、俺は兄貴しか思っていないのに、兄貴は何時も俺から視線をそらす。
 兄貴は徐に頭を上げ、声を上げる。
「そう、そこなんだ。俺は彼女にそこんとこを尋ねた」
 そして、兄貴はまた硬直する。尋ねたから何なんだ? 兄貴はまた上の空になって動かない。
 考えているのは絶対、あの女のことだろう。ああ、何であの女は兄貴と俺の時間を邪魔する?
 兄貴が見ているのは俺でも畳でもない。兄貴が見ているのはきっと――



―――――― あの人は盲雨に捕まってしまったわ。他に誰か忘れられない人が居たのね。


―――――― でも、私まだあの人の事が好きなの……内緒よ



「何黙ってんだよ! 尋ねてどうなったんだ?」
 兄貴を俺の方に向かせようと俺は激しく兄貴の背中をゆする。それでも、兄貴は俺の方に向くことはなかった。
 ただ、顔をあげて、黙っているだけだった。
「……」
 早く訊かせろと更に急かす。兄貴は未だに虚空をにらんでいるだけだった。
 雨の日からも、あの女は兄貴を俺から奪うつもりなのか。
「……分かんなかったよ。俺が余計好きになっただけだ」
 嘘だ。何かあの女から聞いたんだろう。其れくらいの推測は俺でもできる。明らかな動揺、沈黙、上の空。
 俺が聞きたいのはそんな言葉じゃないのに……。俺が本当に聞きたいのはそんな虚言じゃ……。
「この際間男になろうが構わねえ」
 視線を虚空から畳へと戻す。そして、俺は頭を兄貴の肩に預けた。

 実を言うとあの女の事は知ってた。旦那が行方不明のままになってる事も。
    
        だから高を括ってたんだ。

      ”初心な兄貴が何時までも間男なんて続けられるわけ無い”って

    ”最後には俺のところに帰ってくるしかないんだ”って

 間男たって可愛いもんだ。思いも打ち明けられずに柵越しから喋るだけだったから。
 しかも晴れの日だけ。
 幸い、梅雨の時期のためか、最近晴れの日が少なくなっていたところだ。
 俺のほうがもっと長く、濃密な時間を兄貴と過ごせる。
 そう思っていた。

 だが、俺の予想は外れた。

「しぃさん。俺、あなたのことが好きなんだ。俺みたいな若造じゃ駄目ですか?」
 兄貴が何時の日かついに柵越しから後家さんに向かって打ち明けたんだ。
「……私がまだ夫を愛しているって、伝えましたよね?」
 後家さんは困ったように兄貴から目をそらして結構冷たく言い放ったらしい。
「聞きました。いいんですそれでも」

 そして、何時からかな。兄貴が柵を越えてさ。ますます気がおかしくなって
 どうも外じゃなくて応接間にも通されたみたいなんだ。

 ……皮肉なもんだ。
 その頃になると、兄貴は雨の日ばかり選んで出かけるようになった。


――――雨の日は兄貴と一緒に居ることが出来たのに。
                兄貴は俺だけのものだったのに。


    人目につかないようにさ。

         俺はそんな兄貴が死ぬほど憎かったよ。

――――兄貴は雨の日を、俺は雨の日を楽しみにしていたのに。何時でも、兄貴は俺の事を見てくれない。

             兄貴が見ているのは忌々しいあの女。

     俺は一人寂しい部屋で兄貴が帰るのを待つ。



―――― なぁ分るか。

 部屋には誰もいない。雨音だけが屋根をたたく。

―――― 雨が降る度にオレは夕飯の具を減らして買うんだ。

 俺の心に居るのは兄貴だけなのに、雨の日だけは兄貴は俺の物だったのに。

―――― 買い物籠に自分一人の飯しか入ってないってのは侘びしいぞ。

 兄貴はあの女に取りつかれてしまった。兄貴は俺から離れていってしまった。 

―――― そしてその度にオレは兄貴の姿を懸想するんだ。

 薄暗い雨は俺をあざ笑うかのようにふりそそぐ。


 ザァァァァァアア


 今、部屋のどこに居るんだろう。

             どんなこと考えてるんだろう。

 あの女はどう答えてるんだろう。

             どんな声出してるんだろう…兄貴は? 女は?

 何やってるんだアイツら。

             笑い死にそうだから訊かねぇけど


 もしかしたらそれで愛を貫いているつもりなのか?


 目の前で映る妄想。頭の中で広がる妄想は、雨をスクリーンにして俺の眼に直接映し出す。
 ああ、やめてくれ、俺は兄貴のそんな姿――見たくないんだ。
 なのに雨は、俺の意思なんて関係なく、妄想を映し出す。考えたくない妄想、見たくない妄想。
 
 
 憎らしい女の家。
 応接間に横たわる大きなソファ。
 兄貴の背中。
 ソファの軋む音。
 
 そして――


―――― お気に召さないの? それではこうしてみたら如何


 雨に包まれた薄暗い女の応接間。

  ソファの軋む音。

 女の憎らしい顔。
 
  ソファの軋む音。

 静かに家を包む雨。
 
  ソファの軋む音。

 雨の音。
   雨の音。
     雨の音。


 いつの間にか俺は地面に座りながらスクリーンと化した薄い雨の幕を眺めていた。
 地面は雨の所為で冷たい。だけど、俺の心はそれ以上に冷ややかだった。
 
「ま、悪くねぇかな。それも」

 俺の心は冷めきっていた。
 例え下らない俺の妄想を雨が映し出しているだけだったとしても、
 ありえない事を勝手に想像して最悪なパターンを作り上げていたのだとしても、

――――心の中で。

 多分それが現実なんだ。だから、俺はこんなにも冷めきっているのだろう。
 認めてしまった心。諦めてしまった心。馬鹿ばかしい。憎らしい。
 兄貴を思うこの気持はもう――届かないんだ。

 心の奥底で湧き上がる狂気。
 それはゆっくりと大きく形作ってく。狂気、狂気、狂気、狂気。








                          呪われろ








――――ザアァァァァァァァァァァ…


 また一人ぼっちの食事。雨は強く、冷たく、容赦無く降り注いでいた。その冷たく優しさの感じられない無情な雨音を聞きながら、何も考えずに目の前にある食事を口に運んで行く。
 兄貴はいない。あの女のところへ行ってしまったのだろう。誰にも気づかれないように、兄貴達の関係が他の人に漏れないように、密かに。
 グッと口の中に入ってきた食べ物をかみしめる。やってきた嫉妬と憎悪と憤怒を耐えるようにして。何故あの女なんだ。何で兄貴をいつも見ていた俺じゃなく――。
 考えようとして止めた。これ以上考えたってどうにもならないからだ。やってくる三つの激情を理性という氷で鎮める。ああ、空しい。
 あいつらは何をしているんだろうか。俺はその事を考えようとして止めた。またあの幻想が頭を支配しそうで、幻想にまで支配されたら、今度こそ俺は狂ってしまう。

――ばたん。

 無機質な、そして、空虚な扉が開く音。耳をピクンと反応させて、俺は扉の方に目を向けた。
 ずぶぬれの兄貴。目から、体から生気が抜けている兄貴。一体何が起こってるのだろうかと心の中で首を傾げてみる。フラフラとこちらに寄ってくる兄貴。足元はおぼつかず、少しでも押したら、支えるものがなくて倒れてしまいそうだ。
――まるで亡者だ。俺は兄貴を見ながらそう思った。

「……つー、つー。……しぃがいないんだ。知らないか」
 兄貴は顔を真っ青にして俺に聞いた。力がなく威勢もない何時もとは全く違う兄貴。俺は、兄貴の口から出された一つの単語に眉を顰める。一番聞きたくない単語――いや、固有名詞だった。
「知らねぇな。そんな不愉快な名前の女は」
 吐き捨てる。あの女の所為で骨抜きにされてしまった兄貴は、痛々しくて見てもいられない。無残な姿。それと同時に、俺の脳裏をよぎるあの女。鬱陶しい。
 雨音は強く屋根を、地面を打ちつけ、俺が吐き捨てた声なんて兄貴には聞こえない。否、聞こえていたとしても、俺の声は兄貴の耳に入るわけがない。それを考えただけで俺は心が空虚になったかのような錯覚に陥る。
「しぃが俺に何も言わないで家を空けるはずがないんだ……」
 目の焦点すらあっていない兄貴は、一体何のために居間まで入ってきたのだろうか。またフラフラと舞い戻る様にして戸口に兄貴は戻る。体中に絶望の二文字を抱えて。
「何があったんだ……」
 ばたん、と強く閉められたドアの波動で、一瞬部屋が震えた。土砂降りの雨の中へ、帰っていくように俺の目には見えた。
 珍しい土砂降りの日だった。事情は呑み込めないが”何かあったらしい”ということは分かる。兄貴がずぶぬれで村を歩きまわったりしていたのだから。
 俺はあの女の為に体を濡らす気がサラサラ無かったんで、そのまま家で兄貴が帰ってくるのを待ってた。
 水浸しになった廊下は、暗い部屋を反射させ、俺の濁った感情を映し出す。俺は重たい体を持ち上げながら、タオルを取り出して廊下をふく。今兄貴は、土砂降りの雨の中を走り回っているだろう。あの憎らしい女のために、寝る間も惜しんで。
「いなくなったのかあの女。どこかで八つ裂きにでもされてんじゃねーか」
 八つ裂きにされているあの女を夢想する。断末魔の叫びをあげながら血しぶきを上げるあの女。血が滴る包丁を持っているのは――俺。
 口元がにやりとつり上がったのと同時に、バケツをひっくり返したのかと思われるほど大きな雨が屋根を打ちつけた。
 ひどい雨だ。ここまでひどい雨は数年降ってないんじゃないか。巨大な雨粒に強い雨。この土砂降りの中で、兄貴は馬鹿みたいに唯一人、あの女の名前を叫びながら、走り回っているんだろうか。


「しぃ!!」

 激しい雨の中負けずにあの女の名前を叫んでいる兄貴。

「しぃ!! 何処だ!!」

 先が全く見えないのに。

「しぃ!!!」

 兄貴は叫ぶ。あの女の名前を。


「兄貴も馬鹿だろ」
 頭に思い浮かんだ兄貴の姿。それを思い直して俺は兄貴の悪態をつく。きっと、俺が思い浮かべた兄貴は現実の兄貴なのだろう。あの女の名前を叫びながら、走り回る。
「あんなに取り乱してら」
 段々と顔から感情が消えていくのがわかる。段々感情が冷めていくのがわかる。拭いた雨の水たまりは、氷のように冷たい。この冷たい雨の中を兄貴は――。
 ああ、もう取り乱しているなんてレベルじゃない。もう頭がおかしくなってしまっているのではないか。心の中で嘲笑し、俺自身が傷つく。
「ああいうのを”亡者みてーな面”っていうんだろうな」
 生気が抜け落ち、目には光がなく、負の感情に支配され、ひどく悲しそうな――。
 

 可哀想に。


「……俺が居なくなってもあんな顔すんのかな」
 ふと心の中に浮かぶひそかな願望。切実なこの小さな願いは、ゆっくりと俺の心の中で形作り、やがてばらばらに崩れさる。
 欲望と願望は幻想にとどまり、現実には絶対やってこない。兄貴はきっと俺がいなくなったとしても――。

 すげぇ怖くなったから、その時の俺は考えるのをやめた。

 虚ろな目、生気が抜け落ちた体、そして、絶望を背負っている兄貴。あれは自分自身がなくなってしまうのではないかと怯える恐怖の顔だ。
 おかしなほど強い雨は未だに降り注ぎ、止む気配は全くない。俺は床に布団を敷いて、兄貴を待つことにした。
 兄貴はまだあの冷たい豪雨の中で、あの女の名前を叫びながら走り回っているだろう。必ず見つかると信じて、希望と絶望を共に抱えながら、あの女の事を。
 頭の中で渦巻く兄貴の姿。兄貴が雨の中を走り回っている姿。あのときと同じように幻想がゆっくりと頭の中を包む。
 寝付けない。昔はあんなに雨の日を楽しみにしていたのに、晴れの日が憎らしいくらいだったのに。雨の所為で幻想が頭を包み、落ち着いて眠ることすらできないじゃないか。
 やりどころのない苛立ちを心の中に秘めながら、俺は目を瞑る。だけれど、その先に俺が求めている安息はない。時折瞼が閉じる程度だった。
 雨の日の兄貴は俺だけのものだったのに、あの女は雨の日の兄貴まで奪って行ってしまった。何故あの女は俺から何もかも奪っていく?
 もう考えるのはよそう、頭が変になってしまいそうだ。
 

 ぱたん。

 
 雨の音とは違う新しい乾いた音。俺は片目だけ開き、音の発生源を見つめる。
 ずぶぬれの体にごっそりと抜け落ちた生気。目に光は宿っておらず、背負っていた微かな希望は、絶望へと変化していた。
 フラフラと歩き出し、居間の方へと歩いて行く。一歩一歩歩くたびに兄貴の体からは雫が垂れ、床を濡らしていく。
「おっと、それ以上動くなよ。また床を濡らされちゃかなわねえ」
 顔だけを兄貴に向けて言い放つ。俺は布団から出、タオルを持って兄貴の体をごしごしと拭く。氷のように冷たい兄貴の体は、生気が感じられなく死んでいるようにも見える。
 兄貴は何も言わず、動かず、唯なすがままにされていた。全身が氷のように冷たいのにもかかわらず、兄貴は少しも震えていない。

「おかえり、兄貴」
 夜が明けていたと思う。
 兄貴は俺のところに帰ってきた。
 だが、女は帰ってこなかった。


 ―――――― サァァァァァァ


 雨は未だに降り続いている。降り止む様子は全くない。つーちゃんの話が一区切りした後、誰も口を利かなくなっていた。
 雨音だけが音としてこの部屋に存在している。だけど、その音も不気味で、ゆっくりと、ゆっくりと俺達を消してしまいそうだった。
 俺はこの不気味な雨音を聞きながら、彼女の次の言葉を待った。

「なぁ、フサ」
 呟くように、今にも消えてしまいそうな声で、彼女は俺の名前を放つ。彼女は俺のことを見ておらず、唯、彼女自身の両手と畳を眺めていた。
「正気と基地外の違いって何処にあると思う?」
 低い声で独り言のように、彼女は俺に問う。雨音が、彼女の質問に続くように部屋に響き渡った。
「俺の答えが必要なのか?」
「ああ」
 俺が返しても、彼女は未だに視線の対象を両手と畳から俺へと変えてはくれない。
 それでも、俺は彼女の美しい真紅の体をずっと見つめていた。
「戻って来れるか来れないかの違いなんじゃないか」
 心の中に広がる幻想から、望む欲望から、自身の心の中から。
 幻想は黒い雨が写し出し、欲望は幻想を膨らませる。そして、俺は自身の心の中から抜け出せない。
 雨の所為で溶けだした幻想と現実の境界線から。
「そもそも生きている間、一度も狂わずに人生を終える人間なんているのか?」
 自分の心の中から抜け出せない俺も、兄という強烈な幻想に縛られた彼女も。
 溶けだした境界線から抜け出せない俺達は、もう既に狂っているのではないだろうか。
 彼女を見つめるが、彼女は俺の方に視線を向ける気配はない。唯、黙って俺の言うことを聞いている。否、実際、聞いていないのではないだろうか。俺の言葉は彼女に届いているのかな。
「酷く曖昧だと思うんだそういうの」
 俺の言葉が終ると同時につーちゃんの隣に居たのーちゃんが立ち上がる。
「つーさん、フサさん。茶ぁ淹れましょか」
 のーちゃんは柔らかな口調で言った。にこりと笑ったその姿は、この陰気な部屋に一筋の光を与えてくれたように見えた。
「お、おう」
 つーちゃんはのーちゃんに反応して先程まで両手と畳に向かれていた視線をやっと上げた。だが、その視線は俺のことを通ることはなく、のーちゃんに向けられた。
「悪いね」
「いえ、お安い御用ですわ」
 俺の出した答えに対する返答はあるのだろうか。それとも、無いのだろうか。
 それ以前に、俺の出した答えは、つーちゃんに届いたのだろうか。
 のーちゃんは立ち上がらずにつーちゃんの隣に座ったままで動かなかった。数秒の沈黙の後、のーちゃんの顔から笑顔が消える。
「それよりも……いらん口出しですけど、 今の話は町の衆には言わん方がええ」
 彼女はつーちゃんの事を注視しながら、厳しい口調で、話す。いつも穏やかな口調を崩さない彼女にとっては、とても珍しいことだった。
「男と女の沙汰ですし、 元々どないな事があってもおかしゅうないとは思います。せやけど、根も葉もない噂が好きな連中もおる。 気いつけて下さいね」
 少々厳しい口調で彼女は話す。俺は彼女の話を考えながら、つーちゃんの事を見ていた。
 話が終わると、のーちゃんは湯呑を持って台所へと消えていく。
 彼女の言う通りだった。
 もしこの話が外に漏れたらと思うと気分が悪くなる。
 噂話はスキャンダラスで、悪意があるもの程あっという間に広がってしまうものだ。
 ……事実、ギコさんの異様な死に様は葬式の前に外に漏れていた。

 雨音。雨音。
 残されたつーちゃんと俺。雨音はゆっくりと現実と狂気の境界線を崩すというのに。一人でいたら、彼女は本当に帰ってこれなくなってしまうのではないだろうか。
 そしたら、俺はいったいどうするんだろう。彼女を見捨てるのか、彼女と一緒になるのか。それとも――俺が変わるのか。
 考えて俺はフッと笑う。何を下らないことを考えているんだ俺は、そんな事わかりきっているじゃないか。


 ―――― サァァァァァァ…


 バス停に付けられた小さな街灯のおかげでバス停は幾分明るかった。
 つーさんの家を出て大分歩いただろうか。一時間程度歩いた感じがあるが、本当はもっと短い時間だろう。
 雨は未だに止みそうにない。これほどしぶとく強い雨は暫く降ってないのではないだろうか。早くこの陰気な村から出たい。そう思って、何度も雨のカーテンで隠された道路を見ているが、そこから光が現れることはなかった。
 隣にある闇は盲雨などではなくモナーであろう。彼は雨の所為で半身が見えなくなってしまっている。不気味な雨だなと思いながら私はバスが来るのを待つ。
「ギコ君……自殺なんでしょうか。それとも殺されたんですかね?」
 私は隣に居るモナーの半身に話しかける。雨は少しだけ弱まったような気がするが、それでも、傘をたたく雨が止む気配は全くない。
 モナーとこれ以上離れると彼が何処に居るのか分からなくなるだろう。それほど、この雨は暗く、人を惑わして――攫っていきそうな雰囲気を醸し出していた。
「気になる所だけど今はなんともいえないね。まぁ、後でフサ君が何か教えてくれるんじゃない?」
 喪主であるつーさんを大切な物の様に支えるフサ君。何の光もと持っていない目で仏壇を見つめる彼。
 私たちの方から聞き出すことはあっても、彼がつーさんの話を私たちに話すだろうか。何かに取りつかれたような彼が。
「僕なんかは椎名夫妻の事件を思い出すけどなぁ」
 モナーは黒い雨を見つめながら呟く。彼がつぶやいた事件は、私にも聞きおぼえがあるものだった。
「椎名夫妻の事件ってあれですか。夫婦二人揃って行方不明になったっていう」
 この平和ボケした村で唯一起こった大事件だった。確か、夫の方は見つかったらしいが――。
 モナーは雨を見つめたままうなずいた。
「そう。正確にはタイムラグがあってね。奥さんが四年前。旦那さんはもう六年も前になるか。奥さんが行方不明になった後に椎名氏の遺体が見つかったんだが、 奥さんのしぃさんの方はまだ行方が掴めていないんだ。美しい人だった。生きてらっしゃると良いが」
 その彼女も雨にさらわれたというのか? あのときの事件は、盲雨が関わっていたというのか?
 ばかばかしい。私は内心モナーの言うことを気にかけたが、信じはしなかった。盲雨なんて所詮伝説。空想の作り話じゃないか。
 鈍い光が道路の向こうから射し、黒いカーテンを切り裂いた。



 ―――――― シトシトシトシト…


 
 ずっと降っていたこの不気味な雨音にも幾分慣れたようだ。屋根に優しく、だがしつこく打ちつける雨音を聞いても、あまり陰気な気持ちに浸ることもなくなってきた。
 俺は目の前に出されたお茶をゆっくりと口に含み、体の奥底へと取り込んでいく。熱く少々苦味の利いた緑茶は、体中にたまった鬱な気持ちをさらい、綺麗な気持ちだけを置いて行ってくれる。
 体に少々残った鬱と陰気な気持ちを吐き出すように、俺は”ふう”と大きくため息をつく。このお茶は体だけにしみ込まず、心にもしみ込んでいくような気がする。
「茶と茶菓子のおかわりもありますんで、おかわり欲しゅうなったら言うてや」
 柔らかい口調と穏やかな笑みでのーちゃんは言った。先程までの厳しい口調はもう見当たらず、何時も通りの彼女がそこに居た。
 つーちゃんは未だに無表情でただ両手で包みこんでいる湯呑の中を見つめているだけだった。彼女は一口口の中に含むと、俺と同じように小さなため息をつく。
 彼女の口元が若干上がる。そして、痛々しさがのぞく無理やり作った笑顔からは、自嘲の二文字が見えた。”アヒャ”と小さな声で笑った彼女はきっと、迷惑をかけているなとでも思っているのだろう。
「つーちゃん」
「のーの茶はうめえな! お茶請けにも合うぞ。俺と組んで料理屋とかどうよ」
 俺のかけた声はつーちゃんの出した陽気な声に遮られてしまった。場違いに明るい、いつもの彼女の声。
 だけれど、張り付いたように見える彼女の笑顔と声からは、ただ、心の中にある闇を悟らせないようにしているとしか見えない。
「アホ言うたらあきませんわ〜。お上手でんなぁ」
「いや、マジだぞ!オレとお前とで『肉茶屋』とか、受けるんじゃねーか」
 照れたように笑う二人。傍から見れば微笑ましい光景。だけれど、彼女はいつもの彼女じゃない。目、口元、指先、全てが細かく震えて訴えているのがわかる。
 悲しいって、さびしいって、大声で泣きたいって。何時もの喜びに満ちた笑顔とは正反対の笑顔。
 何時もの様に受け答えしていたとしても、何時もの様に笑顔を振る巻いていたとしても。彼女の顔は悲しみと寂しさに満ちている。


                つーちゃん。無理に笑うこと無いんだ。


 泣きたいなら泣けばいい。寂しいなら大声で叫んでのーちゃんや俺に縋りつけばいい。なのに、なのに、なのに。
 なぜ君は、そこまでして明るく振る舞うんだ? 過去の出来事を忘れたいのか? ギコさんの事を忘れたいのか? 雨音を忘れたいのか?
「そうだな。フサ、お前はカーペット用に毛だけよこせ。オレ様が綺麗に刈り尽くしてやるぞ」
 彼女の声が耳に入ってくる。何時も通りの陽気な声。だけれど、所々に暗さが入っている。口元も、目元も、悲しさが溢れ出しそうだ。
 泣きたいなら大声で泣けばいい。そう俺が、泣きたいんだったら俺が抱きしめてやるから。何時までも、君の悲しみが癒えるまで、ずっと。
「返事しろ!」
 口をゆがめて彼女は俺を睨む。怒りと狂気を多少含ませた彼女の瞳は俺が何時も知っているもので、安堵と同時に彼女を思う気持ちが大きくなってくる。
 俺は返事を忘れて、幻想に閉じこもる。彼女の口が動いているが、何を言っているのかは聞こえない。
 痛々しい。いつもの自分をふるまおうとしている彼女は。
 確かにつーちゃんが他の男に惚れていたのは憎いよ。俺じゃお兄さんの代わりにはなれない。
 だけど……。
「イヤ、俺はこのフサフサが命だから。刈られると困るから!」
「オレ様に敵うと思ってんのかよ!」
 何度も経験したやりとり、何度も見た彼女の不敵な笑み。悲しみのとれない痛々しい笑顔。
 何時もと違う物、それは俺が彼女の事を――。
 彼女は俺の事を見てはいない。俺は彼女の思い人に敵うことはない。
 だけど――


 そんな事で離れられるんだったなら
                俺だってこんなに苦しんだりしない。
 

「ありがとな。お前ら」
 彼女は目を閉じて、静かに笑った。
「オレみてーな基地外のためによ」
 溜息といっしょに吐き出されたその言葉は、静かな部屋を少しだけ、切り裂いた。
 彼女は基地外なのか? ならば、彼女はもう見境がつかなくなっているのだろうか。兄貴の幻想に縛られた彼女はもう、帰ってこれなくなっているのだろうか。
 彼女が戻ってこれないなら――俺はどうなんだろう? 彼女を見捨てるのか? また心の中で繰り返される自問自答。
 雨の所為で溶けだした向こう側から、彼女は帰ってこれない。なら俺は――。
「つーさんは基地外やないですわ!!」
「つーちゃんが基地外なら俺も基地外だよ」
 そうさ、俺も境界線が分からなくなっているんだよ。君という甘い幻想にとらわれ、心の中から抜け出せない俺はもう戻れない。
 彼女が基地外なら、俺だって基地外になってみる。もう狂ってしまった俺にとって、彼女の思い人に絶対叶うことがない俺にとって、それも悪い選択肢じゃないんだ。
 
 のーちゃんは青ざめた顔で口を真一文字に結び、つーちゃんは俺の真意を探る様に俺の目を見ていた。
 やっと彼女の視線は、俺の事を捉えた。



 ―――――― サァァァァァァァ



「一度くらい本物の基地外になってみるさ。……おかしいか?」
 フサの言葉にのーは青ざめ、俺は唯、フサの顔を見ていた。
「ちょっとフサさん。基地外とか洒落にならんからやめてくださいよ」
「俺は大真面目だよ? その方が救われる事だって世の中にはあるんだからさ」
 なぜだろう、フサはのーではなくて、俺の目を見て言う。フサの黄色い瞳は何かを見透かしているようで、俺は目を背けた。
「兄貴といた頃は基地外とかそんなことどうでも良かったな…」
 そう、兄貴と居た頃は基地外なんてどうでもよかった。正気と基地外の区別なんてどうでもよかったし、兄貴といられれば俺はそれでよかった。
 兄貴はずっとあの女にとらわれたままだったけれど。
「話、しても良いか?」
 フサとのーの視線が俺を貫く。両手で抱え込んだ湯呑の中を見つめる。揺れる緑茶に合わせて大きくなっていく雨音。
 俺はゆっくりと兄貴の姿を思い浮かべる。

 あの女が居なくなってから、兄貴は酷く落ちこんだ。
 女が自分に何も言わずに消えたのが信じられなかったみたいでな。
 オレの前では何も言わなかったけど、朝から晩まであの女の事考えてた。
 廃人だったな。アレは。
「兄貴、飯こぼれてるぞ」
 俺が兄貴を注意しても、兄貴はただ虚空を見つめたまま、パンを見当違いの方向へと持っていき、こぼす。何回も何回も同じことをくり返し、自分が何を食べてるのかもわかっていないんだろうか。
 人が叫んでも兄貴の耳に入らず、唯俺の声を音として処理しているのか。苛々が募っていく。
「兄貴!」
 どんなに大きな声を出しても、兄貴は俺の事を見てくれない。俺の存在に気づいてくれない。
「こぼれてるっつてんだろうが! 人の話聞いてるのかよ!?」
 兄貴の胸元にこぼれたパン屑を布巾で拭きとる。そして、やっと兄貴は俺が同じ空間に居たという事に気が付いた。
 痙攣した体に、驚きが入った目。それらが俺が今まで呼んでいたのに聞いていなかったという証拠だった。
「へ? あ、悪ぃ。聞いてなかった。ご馳走さん」
 兄貴は力なく立ち上がり、フラフラとドアへと誘われるようにして歩いて行った。
 ドアから外へと出る際、兄貴の口からぽつりと出た固有名詞――しぃという言葉を俺は聞き逃さなかった。
 募る苛立ち、なんで兄貴はあの女の事をまだ考えているんだ? 何故あの女は、居なくなっても兄貴を苦しめるんだ?
 この世から消えてもなおあの女は兄貴を独占している。俺の方が長く兄貴と暮らしていたのに、俺の方が――
「オレは無視かよ! この糞馬鹿兄貴!!」
 爆発寸前の苛立ちを手に持っていた湯呑にぶつける。思いっきり投げた湯呑はドアにあたって派手な音を立てながら砕け散る。
 俺の方が――兄貴の事をずっと長く思ってきたのに、兄貴は俺の事を見ず、あの女の事ばかり考えている。
 兄貴と楽しく遊んだ晴れの日はあの女に奪われ、濃密な時間を過ごしていた雨の日は幻想に消え去り、そして、あの女が消えた今は、兄貴が狂ってしまった。
 兄貴がいつもあの女の事を考えていたように、俺も兄貴の事をずっと長く思ってきたのに、なんで唯一の肉親である俺を無視して、あの女を追いかけるんだ?
 雨の日も、晴れの日も、あの女は奪って行ってしまった。何故兄貴は俺の事を何時まで経っても見てくれない……!?


 砕け散った湯呑の破片が日差しをぎらり、と歪めた。


 嫌味なくらいに外は晴れていた。俺の心とは裏腹に晴れたその空は、変わり果てた俺の姿を嘲笑しているかのようにも見える。
「どうしちまったんだろうなあ。俺」
 頭を支配しているのはあの優しかった美しい女性。突如消えてしまった女性。
 妹の言葉も頭に入らず、俺は彼女の事をずっと考えている。妹のことなど考えず、俺は彼女の事を。

 なあギコよ。そろそろ正気に戻らないか。

 突如俺の心を諭すかのように話しかけてきたのは、頭の中の俺。
 わかっている。俺が正気でないことは。俺が彼女に唯とりつかれてるだけの抜け殻だって言うことは。

 しぃが消えた理由だって、お前には解っているじゃないか。
 彼女が多分戻ってこないこともさ。
 あとはお前がそれを認めてやれば、済む話さ──。

 受け入れたくない。だから俺は彼女を探し続けた。認めたくない。だから俺の頭は彼女の事をずっと考えている。
 俺は足元に目を落とす。食べ物の屑で汚れた胸元。耳に残る妹の叫び声。ああ、また俺はつーを。
 
「たいへんだー」
 大きな声をあげながら誰かが走ってきたので、俺はその方向に目を向ける。
 町民のモナーが顔を青白く変化させ、こちらに駆け寄ってきた。
「何かあったのか?」
「おおごとだ。早く警察呼ばないと」
 俺が声をかけると、モナーは蒼白の顔のまま、俺に言い放った。
「椎名さんの死体が裏山の森から出てきたんだ」

 脳裏に浮かぶ彼女の顔。彼女の名前。彼女の庭。
 椎名。それは彼女の姓。それが俺の心と記憶を掘り起こした。ある日通りかかった住居の庭を手入れしていた美しい彼女。

 美しい女性。

  まさか。

 優しい声の。

  まさか。

 裏山の森。

  まさか。

 死体。

  まさか。

 明確な場所を聞く前に、俺は道を走りだしていた。

 彼女の姿を見るために。


 目の前には人だかりができていた。少々鼻をつくにおいに嫌悪感を抱きながら、人込みをかき分けていく。
 突如消えてしまった彼女を見るために。行方だけでもいいから、知るために。

「ひでえ」
「もっと臭うかと思ったけど意外とそうでもないね?」
「あれは骨を喰った虫けらの匂いだろ」
「何故こんな所に死体が……」
 野次馬達は口々に囁き合う。聞きたくもない言葉、聞きたくもない推測。
 俺はその不愉快な言葉の軍を突き抜けて、掻き分けていった。
「どいてくれ! 知ってる人かもしれないんだ!」
 死体でも、何でもいいんだ――彼女の行方が分かるのなら。
「きみ、椎名さんと知り合いなのか?」
 人混みの中にいた一人が、口を開く。
「”この人はやっぱり椎名さんだと思う?”」
 目の前に映し出された光景は、到底、人と識別は出来なかった。茶色く変色した元々は白かったはずの――。
「誰だ? この骨は?」
 肉がそげ落ち、皮はもう既に消えている。骨と区別することすら難しい年老いた木のような骨。
 着物と呼んでいいのか分からないぼろ切れを羽織っており、多分人だったのだろうと言うことは察することが出来るが、所々体のパーツがなくなっており、一体誰なのかすら識別できない。
「着物に名前が刺繍してあったんだ。ほら、二年前に行方不明になった椎名氏だよ。そんな感じしないか?」
 空気が震えて俺の耳に入ってくる他人の憶測。不愉快な――振動。
「……悪いが旦那の方は面識がねえ。俺はてっきり奥さんかと……」
 死体から目を離すことが出来ない。木片のように横たわった死体。ああ、彼女は一体どこに行ってしまったんだ。
 俺が確認したいのは旦那の姿じゃないのに。彼女に死体でもいいから一目、見たいのに。
 俺のうめき声と共にまた増える雑音と振動。
「なあ、そう言えば椎名さんの奥さんも最近行方しれずなんだよな」
「うん。僕もその噂聞いた」
「あの旦那、浮気してたんだろ?」
「そんな噂もあったね」
「この状況で考えられる事ってそんなにないぞ」
 憶測、噂、状況。彼女の噂が俺の頭に入り、彼女の憶測が俺の耳を貫き、今あるこの状況が俺の体をしびれさせる。
 なんて下らない。なんて空しい――。

「まさか奥さんが旦那さんを殺してそのまま逃げたんじゃ……」

 ――他人の憶測。それが俺の耳を貫いたとき、目の前が醜く歪んだ。
 周りの音が聞こえなくなっていく。周りの人物が見えなくなっていく。目の前に映し出されるのは、一つの綺麗な庭。彼女が何時も居た、彼女が何時も笑いかけてくれた、一つの庭。
 優しい声で、柔らかな口調で、哀しい微笑みで。


 ―――― 彼は盲雨に捕まってしまったわ。


 しぃが旦那さんを殺してそのまま逃げる? なぜそんなことを考えられるんだ。そんな恐ろしいことが彼女に出来るわけないのに。
 彼女はいつだって旦那さんのことを思っていた。

「おい。今しゃべった奴。取り消せよ」

 彼女はいつだって旦那さんのことを考えていた。俺のことなんて見ずに、旦那さんだけを。
 彼女はそんな人じゃない。彼女はいつだって――。

「お前か? あ? お前か?」

 ―――― でも、私まだあの人の事好きなの。内緒よ。

 彼女はあんなにも旦那さんのことを思っていたのに。ああ、目の前が彼女の思いで歪む。

 俺は声の主を捜し当てて、胸ぐらをつかんだ。首を持ち上げながら、力を込めていく。

「く、苦しい…」
 シャツと一緒に持ち上げられた首は声によって震えた。先ほどの不快な振動。不愉快な振動。
「しぃがそんな酷い真似するわけないだろ!!」
 あれだけ旦那さんを愛していたのに。あんなにも旦那さんのことを考えていたのに。
「しぃは……しぃは……!!」
 俺のことなんて最初から――。
 首を締め上げられた男は咳き込みながら俺のことを睨んだ。胸ぐらを掴んだ右手に感じる、男の声の振動。
「そういう君こそ、人様の奥方を呼び捨てにして何様のつもりだ!?君と奥さんは一体どういう関係だったんだね!?」
 男の蔑視、他人の噂、不愉快な憶測。
 俺は世間の好奇心に耐えかねて、目を男から落とした。
「……別に大した関係じゃねえよ。ただ、あの人は清らかだった。それだけは言っておくぞ」
 掴んでいた胸ぐらを力なく離し、町民達から逃れるようにして離れる。未だに好奇の視線はとれることがなかった。
 空は無駄に晴れていた。潔く晴れているこの天気とは裏腹に、俺の心はこれ以上なく荒んでいる。
 忘れられないあの人の名前を、誰にも聞こえないようにそっと、つぶやいた。

 この封印された気持ちを爆発させられたら、どれだけ楽になるのだろう。この気持ちを世間の好奇の視線にさらしたら、どれだけ救われるのだろう。
 
 ――いや、

 世間から隠れるようにして、他人の女を愛して、何になると言うのか。叫んではいけないことなのだ。
 俺はこの心を人に叫んではならない。

 あれだけ待ち遠しかった雨の日はもうやってこない。世間から隠れるようにして彼女の家へと足を運んでいたあの日はもうやってくることはない。
 
 俺は現実に引き戻されるそら恐ろしさの中で、逃げるように 彼女の側で過ごした日々を思い出す。

 雨に包まれた俺と彼女は――共にずっと。


「兄貴、飯こぼれてるぞ」
 彼女との幻想の中で、やってくる声。よく通った中性的な声。
「兄貴!」
 俺のことを呼んでいるのか? 幻想にとらわれた、この俺を。
 声がやってきた方向、隣に目をやった。
「戻って来いよ……」
 黄金色の瞳から沸き上がる涙。それを拭おうともせずに俺のことを見つめるつー。
「うお!? 何で泣いてんだお前?」
「わからないのか? 本当にわからないのか?」
 つーの声がかすれ、初めの方にはあった力強さが全くなくなっている。俺はつーの近くへと膝を詰め、流れ落ちた涙を拭いてやった。
 つーは俺にすがりつく。涙を拭く俺の手を振り払って。
「あの女はもう帰ってこねぇよ! いい加減、目を覚ませ、馬鹿兄貴」
 頭に張り付いて離れないのはしぃの笑顔。彼女のことばかりで埋め尽くされた俺の幻想。
 彼女の言葉が現実だったとしたなら、幻想にとりつかれた俺は、一体何なのだろう。
 日々追い求める彼女の影。日を重ねるごとに幻想に埋まっていく俺。
 あの待ち焦がれていた雨の音だけが、俺の頭を埋め尽くす。とても、とても、強い、雨音。

 
 狂ったように繰り返す

 永遠にこの日常が繰り返される

 街の人たちが居て

 つーが居て

 そして




―――――― ザアァァァァァァァァ・・・




 その日も、あの女が消えた日みたいに酷い雨だった。
 オレは高熱を出して、一日うなされていたんだ。
「お前が風邪なんて珍しいな」
 雨音にかき消された兄貴の声は、朦朧としているこの意識の中でやっと捕まえた言葉だった。
 頭が痛い。体が燃えている。目が霞んで、兄貴がどんな表情で俺のことを見ているのか分からない。
「薬、買ってくるか?」
 兄貴が何処かに行ってしまいそうな気配を感じて、俺は咄嗟に兄貴の腕を掴む。
「……行かないで」
 ああ、だめだ。この雨は、あの時と同じ――。
 雨は俺から兄貴を奪ってしまう。兄貴を正気から狂気へと変えて行ってしまう。兄貴が何処かに行かないように腕を掴んだ手に力を入れるが、全く力が入らない。
「お兄ちゃんここに居て…外、雨が降ってる」
 陰気で暗い雨。兄貴を俺から奪い去ってしまう雨。お願い。俺から兄貴を取らないでくれ。
 熱のせいで体中に寒気が走る。ぶるっと体を震わせて、体にたまった悪寒と陰湿な空気を追い出す。
 雨音はどんどん強くなっていく。誰かを呼び寄せるように、誰かを呼び求めているように。
「お願い……」
 お願い。今日だけは、俺のそばにいてくれ。俺と一緒にいてくれ。俺だけを見ていてくれ。
 雨なんかにだまされないで、あの女にだまされないで。俺だけを――。
「何必死になってんだよ。大丈夫だって。二・三日もすりゃ治るだろ」
 違う。熱のことじゃない。怖いんだよ。外に降っている雨が。雨が降ると兄貴はあの女にとりつかれてしまう。
 雨は俺から何もかも奪い去っていく。お願いだから、兄貴、俺と一緒にいてくれ。今日だけは。
 だけれど、兄貴は軽快に笑いながら、俺が握っていた腕から俺の手をやんわりと外した。
「いいから心配しないで寝てろ。な」
 兄貴の優しい顔、暖かい手。頭に置かれた手に、俺はゆっくりと意識を奪われていく。
 兄貴の暖かい手。兄貴、行かないで……。
「――――うなされてんだよ。お前は。ほうら、早く寝ちまえ」
 虚空に飛んでいく意識。霞んでいく兄貴の姿。お願いだから消えないで、何処かに行かないで、俺と一緒にいて。
 兄ちゃん、外は雨が降ってるよ。あの雨はだめだ。兄ちゃんをさらって行ってしまう。あの女にとりつかれてしまう。
 目の前が暗くなっていく。視界が瞼によって狭まっていく。
「そう。良い子だ。よし…」
 微かに聞こえた兄ちゃんの声。昔からよく聞いていた優しい声。
 兄ちゃんの声はゆっくりと消えていって行くのに、何で、何で雨音だけは、強くなっていくんだ?
 ゆっくりと消えていく意識。微かに残る意識の中で見えるのは、雨に濡れた兄貴の姿。


―――――― ザアァァァァァァァァァァ…


(そういえば、あいつが居なくなったのも雨の日だったな)
 そう、こんな陰気でしつこく地面をぬらしていく雨の日だった。彼女が居なくなったのは。
 脳裏に浮かぶ彼女の姿。心の中から沸き上がってくる彼女への思い。思いと共にやってくるのは、彼女と共に過ごした雨の日の記憶。
 目を落としてみれば、熱によって真っ赤に火照った妹の姿があった。息は乱れ、苦しいのか時折うめき声を上げる。何時もは元気に走り回っているというのに。
 苛々した妹の姿が脳裏をよぎる。俺に向かって怒鳴る妹、戻って来いよと懇願しながら涙を流す妹。
「なぁ、つーよ。お前だけには覚えて欲しいんだ」
 誰にも認められない、叫んではいけないこの心の内。
 お前は叫んで俺を引き留めた。他人の女を愛してしまった俺を、お前は何時も怒っていた。
 それでも。
「兄ちゃんはさ、誰にも言えなかったけどあの奥さんを本当に大切に思っていたんだ。でも俺だけは知っている」
 彼女が俺のことを見てくれなかったとしても、彼女が仕方なく俺をそばに置いていてくれただけだったとしても、俺は彼女をとても大切に思っていた。
 それが結果、世間から隠れるようにして行動しなければならなくなったとしても。
 外の寒さとは裏腹に、つーの頬はとても熱い。うめき声を上げる妹の姿を見ながら、俺は心に決めた覚悟を確認し直す。
「あの奥さんは行方不明になったけど、たぶんもう生きていないだろう」
 彼女を探しに行ったあの雨の日から、俺は分かっていたはずなんだ。来る日も来る日も彼女の亡霊を捜し求め、まともに世間を直視できなくなっていた。
 彼女の亡霊を捜すことによってだけ、存在を証明できていた。彼女が死んだなんて本当は認めたくなかっただけなんだ。ずっと前から分かっていたはずなのに。
 受け入れることが出来なかった。認めてしまえば、また現実へと戻されてしまう。あの至福の時だった雨の日は絶対にやってこない。
 あの待ち遠しかった雨の日。
「あの奥さんはメクラアメに誘われて旦那の所へ逝っちまったのさ」
 俺なんか所詮――。あの酷い雨の日に、彼女は攫われてしまったんだろう。
 メクラアメ。片割れを攫う忌々しい――雨。
「最後まで俺と旦那との板ばさみで苦しんでいた。でも、待っていてもあの世から人は来ないから奥さんは仕方なく俺を側に置いた。オレはそれで良かったんだ」
 彼女は俺のことなんて見ていなかった。唯、旦那さんの代わりに俺をそばに置いただけだったんだ。
 俺はそれでよかった。彼女と少しでもそばにいて居られれば、彼女と少しでも長い時間居られれば。
 人に言えないこの気持ちを抑えつけて、彼女と一緒に過ごしていた日々。偽りの感情を与えられていたのだとしても、俺は幸せだった。
「お前はずいぶん怒ってたみたいだけどさ。いつか、解ってくれよな」
 俺はだめな兄貴だった。お前に何時も迷惑をかけた。お前の相手すらしてやれなかった。
 俺は彼女が好きだった。どんな非難を受けようとも、それは絶対に変わらない。
 いつか、解ってくれよな。
「奥さんもきっと旦那とうまくやってるし、化けて出たりはしねえだろうさ」
 きっと。そうさ、きっと。彼女はあの世で、旦那さんと幸せに暮らしているはずだ。
 微かな願い。彼女にも妹にも迷惑をかけてしまった俺の、ささやかな、願い。
 つーは、話そうとする俺の手にしがみついてきた。顔には風邪との闘争と、必死さを滲ませて。
「薬買ってくるから大人しく寝てろよ」
 俺は掴んできたつーの手を優しく払い、ジャケットから財布を出して、傘と共に外を出た。
 黒いカーテンを引いたような雨は、ゆらゆらと揺れ、俺を惑わすように降る。
 あの時と同じ――禍々しい雨。


―――――― ザァァァァァァァァァ


「にぃちゃん……」
 兄貴の気配はない。微かに残っている意識ももうすぐ飛びそうだ。
 かすれた声は微かに部屋を振動させて、誰もいない部屋に消えていく。ああ、兄貴は行ってしまったんだ。






 酷い雨、何も聞こえないくらいに大きな雨音。

 雨の中を進む兄貴の後ろ姿。傘を持って歩く、兄貴の姿。  
 だめだよ。この雨は、あの女にとりつかれてしまう。怖い。早く帰ってきて。

 雨が作り出した闇の中で、兄貴はゆっくりと振り返る。
 そのまま、俺の所に戻ってきて。あの女の事は忘れて、俺の所に――。

 ―――― …学生さん。

 悪寒が体を走る。
 其処は、あの女の――。






 冷や水を浴びたかのように俺は布団から起きた。体中が汗でぐっしょりと濡れている。先ほどまで見ていた雨の景色は、殺風景な自室へと変化していた。
 布団から出ようとして直ぐに倒れた。頭がクラクラして体が思うように動かない。先ほどの夢の所為か、熱が上がったのかもしれない。
 兄貴の気配は、ない。

「……まだ帰ってこないのかよ」
 時間からしてもう帰ってきていいはずだ。体が熱い、頭が痛い。
 兄貴はどこにいるんだ。薬を買ってくるって行っていたじゃないか。
 直ぐに帰ってくるっていったじゃないか。何で、まだ帰ってこないんだよ。俺が熱を出しているのに、俺が風邪を引いているのに。
 兄貴の面影を探そうと布団から体を出す。自分の体じゃないみたいに重くて熱い。
「こんな日に外に出るからだ。雨は嫌なんだよ。怖くなるから」
 所々かすれる俺の声。殆どでない俺の声。出したとしても、体が拒否して直ぐにむせてしまう。
 雨音は酷い。屋根を突き破らんばかりの勢いで降っている。ああ、そうだ。この雨はあの時と同じ。
 あの女が消えたあの時と――。
 兄貴は一体どこにいるんだ。こんな雨の日に外になんか出て。
 
 ――――――…あの奥さんはメクラアメに誘われて旦那の所へ逝っちまったのさ。

 メクラアメ。盲雨。片割れを連れ去る、雨。
 そうだ、この雨もきっと、この雨も、きっと。
 暗闇しか映さない邪悪な雨、兄貴が叫びながら消えていったあの雨。

 兄貴は……

「俺が苦しいって言ってるんだ! こんな日ぐらい傍に居てくれよ!」
 ああ、苦しい。このまま壊れてしまいそうだ。精一杯叫んだつもりなのに、力なくこの部屋に溶けていく。
 兄貴は居ない。どこにも、居ない。
 そばにいてほしいのに、早く帰ってきてほしいのに、今にも壊れてしまいそうなのに。

 ざあああああああ。

 ああ、この雨音が、この雨が、あの女が。
 胸が焼ける、声帯がつぶれる、目が霞む、喉から塩辛い液体がこみ上げてくる。
 何で帰ってこないんだ。俺が、傍にいてほしいのに。優しく接してほしいのに。
 唯、俺のことを見てほしかっただけなのに、兄貴はあの女に――。

 どこに行っちまったんだ。

 俺を、俺を、俺を――!

「俺を置いて行くなああああああああああああああああ!!」

 掠れた叫び声は雨音によって消し去られた。


 結局、次の日になっても、その次の日も、兄貴は帰ってこなかった。

 傘だけだ。残ってたのは。

 オレはそれで何が起きたのか理解したよ。


―――― シトシトシト…


 暫くの沈黙。
 あまりの静寂に息苦しさを覚える。だが、この状況で何を言えばいいのだろうか。
 のーちゃんは静かに彼女を見つめ、俺は彼女の目元から涙があふれるのを見ていた。
 目から溢れた涙は、頬を伝い、静かに畳に染みをつけていく。涙を拭うこともなく、彼女は唯、畳を見つめていた。
 外では雨が執拗に降り続いている。幾分弱くなったが、それでも、この沈黙には大きすぎる雨音だった。彼女の耳がピクリと動く。あの日のことを思い出しているのだろうか。

「つーちゃん、ありがとう。話してくれて」
 やっと口から出てきた言葉。それに影響されたのか、彼女は両手で顔を覆い、静かな嗚咽を漏らしながら泣いた。
 肩が痙攣しているかのように震えている。ずっと堪えていたのか、彼女はずっと泣き続けていた。
 いいんだ。もう我慢しなくて。泣きたいなら泣けばいい。寂しいなら俺がいつでも抱きしめてやるから。いつでも、いつまでも。
 体を震わしながら泣く彼女はとても愛しい。昔から、ずっと昔から思っていた彼女。こうやって悲しみに包まれた今でも思い続けられる彼女が、愛しかった。
「今晩、一人で大丈夫か? 雨が降ってるけど」
 彼女は俺の言葉にびくりと体を震わせて、涙で湿った顔を俺に向けた。はらはらとこぼれ落ちる涙が蛍光灯に照らされて鈍く光る。
 本当は一緒にいたかった。彼女がこれから一人ぼっちなのは、よく分かる。彼女は一日ギコさんのことを思いながら、泣くのだろうか。
 哀しい。彼女は強がって助けを求めない。どれだけ寂しくても、どれだけ哀しくても、彼女は一人でため込んでしまう。
「オレは大丈夫だよ! 何を今更……」
 先ほど泣き始めたとは思えないほど明るい声だった。だが、所々掠れている。
「この三年間、オレはずっと一人暮らしだったんだぜ?」
 違う。
 違うだろう? 君はこの寂しい家の中で一人ギコさんの帰りを待ち続けていたんだろう?
 どれだけ恐ろしい幻想にとらわれようとも、寂しさで崩れそうになろうとも、悲しさで泣き出しそうになろうとも。
 ずっと、ずっと。君はギコさんの帰りを待ち続けていたんだろう。彼は必ず帰ってくると信じて。
 彼が雨の中で椎名さんを見ていたとしても、つーちゃんはずっとギコさんを見続けた。そう、今の俺のように。
「帰れよ。気持ちだけ貰っといてやるからよ」
 今日からは本当にひとりぼっちなのに。誰もいない部屋で一人暮らしていくのに。
 彼女は俺達に帰るよう急かした。
 俺達は何時もの力強さや元気さが抜けたつーちゃんの姿を見ながら、玄関へと足を進めていった。
 つーちゃんは玄関に立ったときには、もう何時も通りの顔に戻っていた。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
 手を振り俺達を見送る彼女は、何時も通りの顔と声をしていた。
 もしかしたら一人になりたかったのかも知れない。
 逆に一人になるのが怖かったかもしれない。
 俺は、つーちゃんの気持ちがどちらなのか読みとる事が出来なかった。
 つーちゃんの姿を痛々しいと思いながら、俺はその晩、つーちゃんの家を後にした。
 

 俺は迷う。
 陰気な雨がいつまでも降り続いて、俺を妄想の中に誘っている気がする。
 すっかり日が落ちた夜道は酷い雨のせいで先が全く見えない。
 雨は黒く、カーテンのようにゆらゆらと揺れ、そのカーテンが俺の中に潜む妄想を映し出す。
 彼女を抱きしめ、慰める。いつまでも抱きしめて、彼女の悲しみを癒す。
 ギコさんが君を見ていたように、俺も君のことを見ているんだよ。ずっと、ずっと、ずっと。
 泣きたいなら泣けばいい。いつまでも、俺が抱きしめてあげるから、どれだけ時間がかかっても、君を癒すから。
 
 愛しさ故に膨れあがる頭を締め付けるような、妄想。

 もう誰もいないじゃないか。

 二人で、閉ざされた世界で狂わないか。

 君は俺のことを見ていない。
 君の中にいるのは俺ではない、誰か。

 それともお前はまだ
 存在のない男を愛しているのか?

 ギコさん。つーちゃんの兄貴。
 君を最後まで見なかった男。
 雨に攫われた男。
 彼女の思いに気づいてやれなかった。
 池の底で白骨死体となって出てきた――

 死んだ男を?

 彼女をどれだけ思っても、彼女のことをどれだけ見ていても、彼女の心の中に俺は居ない。
 
 カーテンが揺れて、映し出された妄想が消える。
 彼女のことをどれだけ思っても、所詮妄想の中の出来事。
 彼女は俺を見ていない。
 ああ、俺は彼女が好きなのに。消えないで。現実になって。
 妄想は雨と一緒に消えていく。俺の幻想も、雨と一緒に――

「…さん、フサさん!」
 妄想が消えると同時に聞こえる現実の声。
 直ぐ隣で傘を差して、のーちゃんが俺の方を怪訝そうに見つめていた。
 優しい、声。
「何や、怖い顔しとりますなぁ…。気ぃつけんと道に迷いまっせ」
 迷う?
 俺はもう迷っているんじゃないか。
 現実と幻想の境目から。俺は境界線を越えて、戻れなくなってしまっている。
 ああ、だめなんだ。彼女を思う気持ちで気が狂いそうだ。

 雨がまたカーテンを作って俺の妄想を立ち上げる。
 俺は戻れるのか?

    自分の中から、幻想の中から。

 それでも――

 
       お前がいなければ俺にとって この世は闇。
 

 遠くからバスの照明がやってきて、雨のスクリーンを鋭く切り裂いた。だが、俺の頭の中に張り付いた妄想は、消えてくれなかった。
「……ほな、うちはこれで」
「ああ」
 バスの運転手は俺が乗ると思っているのか、暫くドアを開けたままにしていたが、俺が乗らないという事が解ると、バス特有の音を立てながら、ドアを閉める。
 そして、バスは俺の前から遠ざかっていた。次のバスは何時だろうと時刻表に顔を近づける。妄想がまたゆっくりと立ち上がる。
 涙で濡れた彼女の姿。一人できっと、ギコさんのことを考えながら――。

 
 俺は迷う。

 本当にこのまま帰っていいのか?

      彼女を置いて? 一人で泣いているだろう彼女を置いて?

 正気に戻るべきか?

      囚われた幻想から。雨に支配された世界から。

 たとえ正気に戻ったところで首輪のように締め付けてくる想いをどうしようもないんじゃないのか?

      正気に戻ったからって救われる訳じゃないのに。幻想から戻ってきたって、この想いが楽になるわけでもないのに。

 妄想と雨の世界から戻ってこれるのか?

      彼女への思いで気が狂いそうな俺も、死んだ兄貴をずっと思い続けている彼女も。


 背後に揺れる雨に誘われて、俺は彼女の家へと足を向ける。
 さわさわと幻想的に揺れる雨は、俺を戻れないように誘っているのか、それとも。
 歩きから段々と速度を上げて走り出す。足下にたまった水たまりが俺の足によって滑らかな表面を崩していく。
 ほのかな明かりをつけた一軒の家。俺は静かに中へと入った。

「つーちゃん! つーちゃん勝手に戻ってごめん」
 玄関は開いていた。きっと、鍵を閉め忘れたのだろう。居間に戻ったときの彼女は何時も通りの顔をしていたのか、それとも、悲しみに染まった顔をしていたのだろうか。
 傘を傘立てに差し、靴を脱ぐ。
「上がるよ」
 返答は、無い。
 息が苦しくなるような重い空気にまとわりつくような湿気。その湿気を帯びた線香の煙が、未だにゆらゆらと立ち上って生気のないこの部屋を覆う。
 つーちゃんは部屋の真ん中で寝ていた。青白く染まった赤い体色。玄関で送ってくれたあの何時も通りだった彼女ではなくなっていた。否、この姿こそ、本当の姿なんだろう。
 俺達を気遣って無理矢理何時も通りの彼女を演じた。これから本当にひとりぼっちになってしまったのに。その現実から逃げるようにして、陽気を偽る。
 俺は彼女にそっと近づく。彼女は一つの黒い物体を抱えながら、眠っていた。

――――…骨壷? ギコさんの骨か。

「つーちゃん、風邪ひくから。……つーちゃん」
 彼女に向かってつぶやき、彼女の隣に腰掛ける。触れてみた深紅の体は氷のように冷たい。陰鬱な気分に浸らせる、そんな冷たさだった。
 彼女が起きる気配はない。目元に鈍く光った涙は、彼女が泣きながら眠ってしまったと言うことを語っていた。
 俺は彼女と同じように横たわり、冷たい体を温めるように抱き寄せた。
 冷たい彼女の肌、悲しみに沈んだ目元、そして、ギコさんの――骨。
 俺は彼女を抱き寄せ、目を閉じる。


 つーちゃん。


     ―――― 重い空気、重い雨音。


 もう一人で眠るの止せよ。


     ―――― 一人で眠って、一人で傷ついて。


 つーちゃんの心にはギコさんが一緒に眠ってるのかも知れないけれど、


     ―――― それでも君は、ギコさんを見続けて。


 俺にはつーちゃんが独りぼっちに見えるんだ。

 
     ―――― 幻想に囚われた君と、君への思いで気が狂いそうな俺と。


 俺が側にいるの、わかるか?


     ―――― この雨に支配された世界の中で。


 雨音が聴こえるかい?


     つーちゃん、つーちゃんは俺を許してくれるか?


 自分がまともかも解らなくなっている俺を───────俺を。


―――――― ザァァァァァァァァ


 何時の間にか眠っていたらしい。
 両腕にある感触は違和感があったが、それでも、隣に感じる暖かい体温で俺は安堵した。
 霞んだ暗闇。暖かい体温。

「……奥さんもきっと旦那とうまくやってるし、化けてでたりはしねえだろうさ」

 突如頭の中で放たれる兄貴の言葉。嫌だ。俺はそんなこと聞きたくないんだ。
 あの女の事なんて話さないで。俺と一緒に。俺とずっと一緒にいて。

「薬買ってくるから大人しく寝てろよ」

 行かないで。離れないで。俺を、俺を置いていかないで。
 薬なんていらないから。一緒にいられるだけで――。

 ハッと俺は目を覚ました。
 目の前に広がるのは何時も通りの居間。そして、暗い部屋を覆うかのような雨音。
 
「…あ……」
 フサが寝息を立てながら、眠っている。
 声が震える。体が震える。

 なんで。何で、フサが? いや、そんなことより……。

「にぃちゃん!」
 
 部屋を見渡しても、兄貴の姿はない。
 起き上がった衝撃で、手に持っていた物がゴトリと動いた。

 手に持っているのは――骨壺。

 兄ちゃんはもういない。
 そうだ。
 兄貴は骨になってしまった。

 兄貴はもういない。もう俺と一緒にいることはない。
 兄貴は死んでしまった。兄貴は行ってしまった。雨の――向こう側へ。

 涙が溢れる。灰褐色の骨の上に落ちる俺の涙。

 いやだ。
 そんなのいやだ。
 骨になったなんてイヤだ。
 置いていってしまうなんていやだ。
 
 嫌だ。置いて行かれるなんて。認めるなんて。嫌だ。
 兄貴はまだ生きているんだ。兄貴はこんな粉なんかじゃない。
 兄貴の手、体温、体。
 微笑む姿、亡者のような姿。

「兄貴。何処行っちゃったんだ」
 
 俺は叫ぶ。それに同調して、雨音が強くなる。
 あのたたきつけるような雨音。俺に恐怖を植え付ける雨音。
 そうだ。この雨は、あの時と同じじゃないか。あの女が攫われたあの時と、兄貴が雨から帰ってこなくなったあの日と――。

「こんな……こんな骨……」

 こんなのは兄貴の姿じゃない。こんな粉は兄貴じゃない。
 兄貴は壺なんかに入っていない。俺が知っている兄貴は、俺がずっと見ていた兄貴は――!

 壺を放り出す。ガシャンと壺が倒れ、中から粉がこぼれ落ちる。
 違う。違う。違う。違う。違う。違う。
 兄貴は、兄貴は、兄貴は――!

 兄貴はまだ雨の中に居るんだ!

 そうだ。この雨音の中に――兄貴は。
 傘なんて持たずに外へと飛び出す。禍々しい、黒い雨。



「つーちゃん!」

 放り出された壺。床に散らばる死者の骨。彼女を最後まで見なかった男の――。
 ああ、つーちゃん。あの雨はだめだ。禍々しいあの雨は、全てを攫っていってしまう。
 行かないでくれ。いってしまったら、俺も本当に一人になってしまう。

「つーちゃん! 何処行くんだ!」

 俺の声は彼女に届かない。雨音が俺の叫び声をかき消して、つーちゃんを飲み込んでいく。
 傘を傘立てから引っこ抜いて玄関を閉めずに彼女を追う。

「つーちゃん! つーちゃん……!」 

 彼女の姿はどんどん小さくなり、雨が彼女の行方を眩ますかのようにゆらゆらと揺れる。
 俺の声は彼女に届かない。つーちゃんの声もギコさんに届かない。



 兄貴は雨の中にいるんだ。何で俺の所に帰ってきてくれない?
 ずっと見ていたのに。何故、兄貴は俺を置いて行ってしまうんだ。
 
「兄貴……俺に独りぼっちで生きろって言うのか」

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 一人なんて嫌だ。兄貴があの女を思っていたように、俺も兄貴のことを思っていたのに。
 兄貴。一体どこにいるんだ。これじゃあ、兄貴と同じじゃないか。あの女が消えた日と。
 
 地面がぬれていたせいか、足を滑らせて俺は盛大に転ぶ。
 昔のように兄貴が俺のことを心配してくれることはない。
 兄貴がもう俺の所に帰ってくることはない。そうだ。兄貴は、雨の向こう側に行ってしまったんだ。
 地面は冷たい。この俺のように。
 冷たい雨が俺を嘲笑うかのように降り注ぐ。ああ、このままこの雨に抱かれていたい。
 兄貴が消えて行ってしまったこの雨に抱かれて――。

 隣に人影が現れた。
 兄貴かと思って振り向いてみたが、其処に立っていたのは――フサだった。



「フサ。お前じゃ駄目なんだよ。俺は兄貴がいいんだ。兄貴じゃなきゃ嫌なんだ」

 分かっていた。彼女が俺の目を見据えて俺を拒絶しても。昔から、彼女が好きなのは俺じゃないことくらい。分かっていたんだ。 

「ああ。知ってるよ」

 彼女が好きなのは俺じゃない、誰か。
 君が誰かをずっと見てきていたように、俺もずっと君を見続けた。
 それがどんなに勝ち目がない事だと自分でも分かっていたとしても。
 
 俺は地面に跪き、彼女を優しく抱く。彼女は一度びくりと震え、俺を抱き返した。
 彼女の肌は冷たい。

「オレ、兄貴の女になりたかった。キスとかセックスとか兄貴としてみたかった」
「うん」
「オレ、汚いか?」
「汚くなんかないから。オレは狂ってるから。それはわからないことだから」

 彼女は泣いた。今までにためた悲しみと寂しさを紛らわすかのように。
 泣きたいなら泣けばいい。俺がずっと抱きしめてあげるから。俺がいつでも傍にいてあげるから。
 どんなに時間がかかっても、君の悲しみが癒えるまで。
 抱きしめる力を少しだけ、強める。
 
 ただただ

   分け合うつもりのない痛みだけを寄せ合って

 それが唯傷を広げるだけの行為だったとしても
 
   苦しむしかなくて おし黙ってるしかなくて

 何も出来ない
                             
   俺は哀しいほど無力で

 それでも お前を愛さなければこの世は闇。


 彼女の叫び声が雨の中に響いた。




「――――帰ったら送り雛でも作るかな」

 彼女はもう何時も通りの顔へと戻っていた。
 彼女の手を引きながら、俺は家へと戻っていく。
 明るくはっきりした声に、俺は彼女に目を向けた。

「送り雛?」

 首を縦に振って肯定し、彼女は更に説明を加えた。

「オレの身代わり人形。兄貴と一緒に墓に入れるんだ。オレの思いが兄貴に届くように」




     盲雨に遭わなくなる方法の一つに、送り雛がある。
     身代わりの人形を差し出すことで死者を供養し、
     生者も儀式を通して死者への未練を断ち切るのだ。




「……つーちゃんはそれでギコさんのこと整理できそうか?」
「無理だろ。そんな簡単じゃねーし。ずっと時間がかかると思う」

 俺はそうかと相づちを打った。

―――― いいさそれでも。俺はずっと待つだけだから。

 彼女の傷が癒えるまで。彼女の寂しさが無くなるまで、彼女の悲しみが喜びに変わるまで。

―――― そうとも。俺はいつまでもお前の傍に居るから。

 生きるだけ傷つくお前のために傍で傷つき痛み続けるから。

―――― だから繋いだこの手を離さないでその命でオレの道を照らしてくれ。


 そうだ、彼の喪が明けたら、俺はお前に結婚を申し込むよ

 いつかきっと、俺の嫁さんになってくれよな。



 突如、フッと俺の左手が軽くなる。


 俺は目を左手におろした。


 茶色い手――俺の手だけが、其処にあった。



「つーちゃん?」




 ザアア。ザアアア。ザアアアアアアア。



                                      幕

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