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祓給清給

タカラの左耳には緑色に光る石がついている。
いつそれがつけられたのか本人は覚えていない。幼い頃に社の中で遊んで帰宅するといつの間にかついていたのだ。
同じものが祖父の左耳、母の右耳にもついている。
街はずれの高台にある神社の中で遊んでいた筈なのに、澄んだ水が滾々と湧く岩淵に迷い込んだ記憶だけは鮮明に残っている。あの時、喉が渇いていたのでその水を思わず手で掬って飲んだ。
水はほんのりと甘く、冷たく、爽やかな若葉のような香りが微かにした。
誓約。
水を飲んだタカラの耳には確かにそんな言葉が聞こえた。
意味は解らないが、ただ3文字、「うけい」という言葉は幼い彼の胸に強く残った。
もしかしたらその時なのかもしれない。耳に石がつけられたのは。祖父も母も同じように「清らかな水の湧く淵」に行った事がある。
この耳に小さく光る石は、その水を含んだ者と何者かの、誓約の証なのかもしれない。
タカラの家はその“高台にある神社”で、歴史がある。
祖父が宮司で母が巫女。タカラも石を授かってからは祖父らに混じって祓に参加している。
深夜に行われる祓に参加すると、始まる前までは覚えているのだが途中からの記憶が無い。そして大抵朝まで眠ってしまっている。
祖父と母は身に覚えがあるらしく、翌朝慌てて飛び起きたタカラに「疲れは残っていないか?」と聞く。
どうなっているのかは知らないが、聞いた話で何と無く“自分は依巫であるらしい”と自覚している。


「モウチョットデスカラ」
でぃの澄んだ目がタカラをじっと見詰める。
彼女の手に握られた鉛筆がサラサラと心地良い音をたててカンバスの上を滑ってゆく。
タカラは緊張気味の表情をまっすぐ前へ向け、汗ばんだ手を握った。
絵のモデルなんてやったことがない。勿論、学生の趣味に付き合う程度のものだから緊張なんてする必要は無いのだが、向かい合った異性にじっと見詰められるというのは思っていた以上に緊張するものだった。
別に鼻の頭くらい掻いても大丈夫なのだが体が勝手に硬直する。ふと気付くと息まで潜めていて、おかげで胸がドキドキしっ放しだ。
「アリガトウゴザイマス。動イテモ大丈夫デスヨ」
でぃの声がタカラの緊張の糸をぷつりと断ち切る。
硬直呪縛から開放されたタカラは思う存分深呼吸をし、コチコチに固まった身をあちこち伸ばして元に戻した。
「ソンナニ緊張シナクテモ良イノニ」
でぃは開いていた窓を閉めると帰り支度を始めた。
「意外に緊張するものですね」
モデルを気軽に引き受けてしまったのには理由がある。手っ取り早く言うと、タカラは“でぃに近付きたかった”のだ。
最近、学校に妙な噂が流れている。
普段使われていない北校舎の4階トイレの一番奥のドアをノックすると誰も入っていないのにノックが返ってくるとか、音楽室からピアノの音が聞こえたのに誰も居なくて弦が赤茶色に汚れていたとか、そんな可愛いものではない。
生徒が行方不明になる事件が相次いでいる。
何らかの事件に巻き込まれた可能性がある、と警察は思っているらしい。それでここの所生徒の登下校には細心の注意が払われている。
各家庭の保護者が通学路に立ったり、場合によっては先生が地区別に途中まで送ったりもしている。
『変質者のせいじゃないのになぁ』
タカラの母親と祖父は学校からの“注意を呼びかける手紙”を眺めながらそう言っていた。
彼もそう思っている。だからこうしてでぃに近付いたのだ。
「明日カラ色ヲ付ケ始メマス。気楽ニシテイテ下サイ」
本人は気付いていないようだが、でぃには何者かが憑いている。
よくある話だ。何かを連れている人は意外と多いのだ。
タカラはすれ違った人に“連れ”が居るかどうかが判ってしまう。祖父や母のようにハッキリと捉える事はできないが、感じる事はできる。
そういう時には決まって顔の左側半分がゾワゾワと鳥肌立つ。石のついている側の方が“そういうもの”に敏感らしい。
学校には多くの人間が集まっているせいもあり、彼の顔が鳥肌立つ機会は多い。大抵の場合は知らん振りをしていればどこかに流れて行ってくれたり、通りすがったりするだけで特に問題は無い。
が、でぃとすれ違った時は違っていた。
全身総毛立った。左耳の石を中心に漣が全身に広がっていったような感触だった。
邪悪な意思は感じられない。そのわりに反応が大きかった事が気になる。
一体彼女に憑いている者は何者なのか。
そう思っていた矢先、美術部に所属しているでぃが課題である肖像画のモデルを探しているという話を聞きつけた。
チャンスと思い、彼女の近くをウロウロしているとすぐに向こうから「モデルニナッテ下サイ」と声をかけて来た。
彼女に憑いている霊は普通の者とは違う匂いがするタカラに興味を持ったようだ。おおかた“お仲間”でも憑いていると思ったのだろう。
きっとでぃは除霊が済んだら何故タカラに声をかけたのか不思議に思うに違いない。
声をかけたのは“彼女の意思”ではなく、“彼女に憑いている者の意思”だ。
タカラが帰宅してこの話をすると、先ず母が参観日を利用して偵察にやって来た。感じる力があるとは言っても彼はただの依巫だ。何かができるわけではない。
教室が違うので遠巻きにしか視る事はできなかったが、母は「さして悪い気は感じないけど、ここ最近連続している失踪事件はあの子に憑いている者の仕業ね」と言った。
と、いう事は次の行方不明者は彼女に違いない。
母の話を聞いて先ず祖父が密かに結界のようなものを作った。エリアが広域にわたるので完全に霊の力を無力化するものはできないそうだ。
広域とは言っても学校とでぃの住む家を囲むので精一杯だ。何かがあった時には自宅の鏡が知らせてくれるようになっているのだが、結局それを1日中ずっと監視下に置いておかなければならない。
母と祖父は交代でその鏡を監視している。勿論、向き合ってじっと見つめているわけではない。ただ持ち歩いているだけだ。
知らせる時には尋常ではない程光るので常に視界の片隅に置いておけば良い。バッグに入れておくのなら口を閉じずに開放しておけば光が漏れるのですぐにわかる。
タカラはでぃに近付き、除霊のできる祖父の元へ誘導する役目を言い渡されていた。
「聞イテモイイデスカ?」
帰り支度をしていたでぃは唐突にタカラを振り返った。
「はい?」
「ソノピアス、怒ラレマセンカ?」
突然の質問に驚きを隠せない。タカラの笑顔が強張る。
「……何の事ですか?」
一旦とぼけて相手の反応を見る。この石は普通の人には見えない筈なのだ。だから学校で注意された事は一度も無い。
たまに写真に写ってしまうことならある。霊感が強い者が撮るとそういう事も起こるのだ。
小学校の入学式の記念撮影がそうだった。写真を見た何人かの友達に言われ、それまでは“普通”だと思っていたので石や祓の話をした。すると気味悪く思われたのか、仲間外れにされたのだ。
それ以来人前ではあまり話さないようにしている。
「コレデス」
でぃは指先で緑の石をつん、とつついた。
「見えるんですか?」
「見エマス」
ハッキリと言い切られてしまった。
「コノピアスガ綺麗デ似合ッテイタカラ、モデルヲオ願イシタンデスガ」
「はぁ?」
霊の力で見えるのか、元々霊感が強いタイプなのか。
まさか石が見えているとは思いもしなかった。チラリとカンバスの下書きを見ると左耳にちゃんと丸く石が描き込まれている。
「他の人には見えないようですよ」
「ヨク見セテ下サイ」
でぃは石を貸して欲しい、と掌を出した。
「ダメです。これは取れませんから」
実際、自分でもよく見てみたいと思って鏡の前で悪戦苦闘したのだが外す事はできなかった。
「ジャア、コノママデ」
でぃはタカラの左耳を指でつまむと顔を近付けてまじまじと見た。
でぃの吐息が耳元に微かにかかる。
こうしている間にも石を中心にゾワゾワとした感触は広がり続け、やがてそれはジンジンとした疼きに変わってきた。
「あの……耳、弱いタイプなのでやめて下さい」
言いながらタカラは体の異変に気付いた。激しく脱力してゆくのだ。
「スミマセン」
でぃが手を離すと脱力感はより一層激しいものとなった。
立っている事ができずにへたり、と椅子に座り込む。
「大丈夫デスカ?」
脱力が彼女に憑いている者のせいで起きたのか、石がついている耳を触られたせいで起きたのかは判らない。
が、どうも変だ。単に憑依霊の近くに寄ると起こる鳥肌とは違っている。
「ちょっと……休めば平気です」
冷や汗が噴出し、呼吸も浅くなっている。この感覚には覚えがあった。
(あ、ちょっと…まさかこんな所で? 良いんですか?)
発熱をする直前の疼痛のようなものが背中側に広がってゆく。
それと同時に圧迫感を感じるような熱が息を吸う度に入り込む。無理矢理ねじ込まれてゆく感じだ。
その感覚はタカラの浅い呼吸に合わせるように続いた。
「悪いんですけど、先に、帰って下さい」
「先生ヲ呼ンデ来マス」
「大丈夫です! 出て行って下さい」
「デモ……具合ガ悪ソウデスヨ?」
「大丈夫です」
その言葉は強がりなんかではない。傍目には具合が悪そうに見えるが、熱が満ちてゆけばゆくほど止めようの無い恍惚感に変わってゆく。
疼痛は最早ただの疼きに変わり、体が勝手に震え出しそうだ。
渦に飲み込まれてゆく。苦悶に満ちた表情に悦びの色が徐々に濃くなってゆく。
呼吸が小刻みな吐息を繰り返し、まるで声を出さずに息だけで笑っているかのようになる。
「見ないで、下さい」
こんな事は初めてだ。禊を済ませて本殿で白い装束に身を包み、場を清め、鏡を前にしているわけではないのに。

神が、降りて来る。

どこでスイッチが入ってしまったのかは判らないが、この感覚はいつもの感覚だ。
もう少しすると意識が遠くなって全てがわからなくなってしまう。
神の意図は解らないが、目の前の相手に危険を感じた神が自分を守るために降りて来るように思えた。
朦朧とする意識を何とか保ちながら机にしがみ付く。
「お邪魔しまーす」
二人きりの教室のドアがガタガタと建て付けの悪い音をたてながら開いた。
視界が歪んで誰が入ってきたのかよく見えない。しかし声には聞き覚えがある。
「迎えに来たわよ」
バッグの中から強い光を溢れさせながらタカラの母は言った。



気が付くと、何かに揺られていた。小刻みで時折ガタン、と揺れたり頭側や足側に軽く振られるような感じがする。
薄く目を開くと周囲は薄暗い。瞳孔が萎縮したままなのだろう、祓の後にもこういう状態にはよくなる。
焦点が合わない。ぼんやりとした黒いシルエットが二つ見える。
「全く。僕はタクシーじゃないんですよ」
「あら、一人息子が心配じゃないの?」
シルエットは一言ずつ言葉を交わすと沈黙した。
揺られている感覚がしばし途絶え、微かにエンジン音が聞こえる。やがて再び揺られはじめ、ようやくここが車の中なのだと理解できた。
「心配ですよ。養育権を渡して貰いたいと思うくらいにね」
「それは駄目」
話の内容と声から察すると二つのシルエットは父と母が座っているシートで、おそらくこの車は父の車だ。自分を運びきれない母が呼び出したのだろう。
二人はタカラが石を授かってすぐに離婚をした。
父親は同じ町内に住んでいて歯科医院を経営している。家も近い上に会うことを禁じられているわけではないのでタカラは父の家に自由に出入りしている。
彼は祖父や母が持つような能力は持ち合わせておらず、普通人だ。その上曖昧なものに激しい嫌悪を感じる性格をしている。
つまり、神社に入り婿になったは良いが妻と義父が感じさせる“神秘の世界”に堪らず逃げ出したのだ。
最初の数年は我慢したらしい。
それは結婚して間も無く授かった息子が自分の仲間になってくれるのではないか、という期待があったからだ。しかし、そんな淡い期待はタカラの耳についた石によって粉々に打ち砕かれた。
勿論父親にはその石が見えない。
だから知らん振りをしていれば騙し続ける事ができたかもしれない。しかし間の悪い事にタカラが石をつけて帰宅してきた時に彼は休日で家に居た。
妻と義父の様子と、タカラの話す内容を余すところ無く知ってしまった彼はその場で出て行く覚悟をしたという。
「外でなんて……こんな事初めてよ」
でぃを追い返してすぐに彼女は鏡を使って場を収めた。審神者である彼女はタカラの身に降りている者が誰なのかを見てすぐに理解した。
「あの女の子、この子に何をしたのかしら?」
別に何をしたわけではない……と、思う。
彼女はただ耳の石を見ようとして近付き、その耳に触れただけだ。その行為が企みを持った霊の仕業というのならば話は変わってくる。が、あの時には何も感じなかった。何かされていればいくら何でも気付く。
タカラはそう伝えたかったがいつものように体が動かない。こういう時は声を出すこともままならないのだ。意識が戻っているだけ珍しかった。
自分は操り人形のように神に体を委ねる。その間の自分がどうしているのかは判らない。神が帰った後、押しやられていた自分が全て元に戻るまでの間はこの体を満足に司れないのだ。
器に粘液状の“糊”のようなものを入れてあったと考える。
その器の糊を他の器に取り、一時的に他のものを入れる。
そしてそれを再び取り除き、また淵から糊を流し込む。
糊は粘度が高ければ高いほどゆっくりと器に戻り、底から溜まってゆく。水のように入れてすぐに器の形と一致できるわけではない。 慣れによって糊の粘度は徐々に下がり、回復が速やかになってゆく。歴代の依巫はそうだった。 祖父からはそう説明されている。タカラ自身もこの説明には納得がゆく。 きっと器の底の部分が頭に相当するのだろう。だから最初に意識が戻っても体が言う事を聞かないのだ。指先のような末端になればなるほど回復が遅いことにも頷ける。
「神は何の意思もお示しにならなかったわ。すぐに鏡にお入りになったもの」
タカラに降りる神は闇淤加美神(くらおかみのかみ)という水神だ。それはまだタカラには教えられていない。
「単に邪気を感じたから降りた、とか? タカラがお気に入りなのでしょう?」
「“依巫”よ」
「汚い手で俺の依巫に触れるな! って所でしょうかね。神殺しの際に生まれた神ですから血の気が荒いのでしょう。きっと」
(神殺し……?)
「そういう言い方しないで」
父親は不可思議な現象や話を怖がる癖に遠慮が無い。“あははっ”と笑いながらあっけらかんとものを言う。母は彼を睨んだ。
この辺りでは珍しいギコ種女性の母はその中性的な雰囲気故に神に愛されたのだろう。代々誓約を交わすのは直系の男子ばかりであったのに、彼女は石を授かった。
能力故に進学せず、高校を出て神社を営む父を手伝い始めてすぐにとある地鎮祭に出向いた。
そこで二人は出会ったのだ。
よく父はその時の事を「凛とした姿に目を奪われた」と話している。
「そりゃあ色々大変な事もあるけど、神に愛されるのは悪い事じゃないわ。私は誇りに思ってる」
急な坂を上り終え、砂利敷きの道を低速で進む。もう家は目の前の筈だ。車は先程よりも揺れながら暫く進み、すぐに停止した。
「欲張りなひとですね」
彼はサイドブレーキを踏みながら呟いた。
「僕に愛されるだけじゃ足りないですか?」
「…………」
人には相性というものがある。
タカラはこの二人を見ているといつもそう思う。
望んで共に在ることができる人達と、望んでいるのに共に在ることができない人達が居る。この二人はきっと後者なのだろう。
「……良かった。まだ誰か居るわ」
母は車を降りると明かりのついている社務所に人を呼びに行ってしまった。
一人ではもう重くて運べないからだ。
父親が運べば問題無いのだろうが、診察の合間に患者を待たせて来ているので早く帰してあげなければならない。
タカラの体は程無くやってきた二人の氏子に運ばれて行った。
(神殺し……)
相変わらずピクリともしない体の中でタカラは先程の父の言葉を思い出した。
自分に降りている神は建速須佐之男命の直系だと聞かされていた。かの神は黄泉の国から戻って来た伊邪那岐神が穢を祓うために行った禊によって生まれた神だ。だから清らかな水に縁があるのだと思っていた。
“神殺し”などという不穏な話は聞いた事が無い。



翌日、消耗が激しかったタカラは学校を休んだ。
でぃからはお見舞いの電話をもらった。
近隣からも参拝客がやって来る大きな神社なのだから場所は知っている筈なのだが、やはり霊が警戒しているのだろう。家に来る事は無かった。
『良カッタ。治ッタンデスネ』
登校すると安堵の表情を浮かべたでぃが廊下に飛び出してきて声をかけた。
『心配させてしまってすみません』
でぃが無事なのは結界に異常が無い事で知ってはいた。それでも横になりながら何となく心配だった。
石に触れた事をキッカケに何か起こらなければ良いのだが、と思ったからだ。
『病気ナンデスカ? オ母サンガ“イツモノ発作デス”ッテ……』
『大した事はありません。どっちかと言うと体質に近いものですから』
あの状態を説明しろ、と言われたらどうごまかそうかと思っていたのだが、それ以上の事は何も聞かれなかった。
それきり、数日は何事も無く過ぎた。
絵は仕上げの段階に入っている。手数と時間をかけて塗り込まれた厚みのある色合いのタカラが穏やかな笑顔を向けている。
耳に石は描かれていない。
あんな事があってビックリしたせいなのかと思ったら、数人の友人に聞いたらしい。「ココニ ピアスヲツケタラドウデショウ?」と。
友人達は口を揃えて「ありのままに描くべきだ」と言い、ピアスの存在を否定した。
でぃはそう言われて初めて“他の人には見えない”と言ったタカラの言葉を信用したのだ。

タカラはふと、胸元に手をやった。
昨夜、タカラは周りが寝静まったのを確認した上で奥宮に忍び込んだ。
自分に降りる神の証を見つけたかったのだ。
何をどう探したらいいのか判らないので、手始めに普段は簾で隠されている御神体を見てみる事にした。
十歳の誕生日に奥宮に祀られている御神体を見せて貰ったことがある。
特別何かを感じた記憶は無い。所々に美しく光る部分を持つ大きな岩をただ眺めた事しか憶えていない。
二張りある簾の手前を手繰り上げる。と、奥張との間に箱がある。開けてみると勾玉が納められていた。
勾玉は紐に通されており、両側を小さな硝子玉と滑石製小玉が数個、交互に並んで装飾している。
長細い桐箱の中にあったそれを懐中電灯に照らしてよく見ようと手に取った瞬間、体が急に軽くなった。
僅かに残っていただるさが洗い落としたかのように消え失せ、勾玉が耳の石と呼び合っているのが解った。 紛れも無くこの勾玉は耳の石と一対のものだ。
タカラは躊躇う事無く自分の首に勾玉を下げた。
“集御刀之手上血 自手俣漏出 所成神名 闇淤加美神”
桐箱の底にはそう記されている。タカラはそれをメモに書き写すと箱を元通りに戻した。
「御刀(みはかし)の手上(たがみ)に集まれる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出でて成れし神の名……闇…?」
以前に何かで読んだことがある。が、何の一節だったのかが思い出せない。
意味は読んだ通りのまま、「刀の柄に集まった血が指の間から漏れ滴って成った神の名は“闇淤加美神”」という事だろう。
神話の「神生み」の件だろうか。その他に思い付かない。
タカラの部屋には調べられる資料が無いので残念ながら昨夜の探索はそこで止まってしまった。

昨夜手に入れたその勾玉は今もタカラの胸元で力を与え続けている。
力は胸の鼓動に連動し、脈を打っているようだ。
もしかしたら持ち出してはいけないものだったのかもしれない。が、手にした時の石の呼応を知った以上、戻すことなど考えられなかった。
祖父も母も何も言わない。勿論、制服の下に隠しているから見えるわけではない。
が、二人の能力を考えるとこんなに強い勾玉に気付かぬ筈が無いような気がしたのだ。
登校する前に祖父の部屋から持ち出した神統系図に目を通し、“闇淤加美神”の名を探し出した。
前後に記されている神の名を辿り、神話の中にあの一節も見つけ出した。
国生みで有名な伊邪那美神は火神(火之迦具土神)を産んだために火傷を負い、命を落とす。夫である伊邪那岐神は怒りのあまり我が子である迦具土神を斬り殺した。
その時に八柱の神が生まれている。闇淤加美神(くらおかみのかみ)はその中の一柱だ。
図書室にあった“古典文学大系”という本には、闇淤加美神の『闇』(くら)は“谷間や渓谷を意味”し、『淤加美』(おかみ)は“水を掌る神を意味”していると記されている。別書では“龍神である”ともあり、雨乞いの神としても知られているようだ。
御神体は大きな翡翠だ。
宝石としてのものではない。翡翠の原石を豊富に含んだ蛇紋岩という岩だ。
今考えると川の流域や渓谷が主な産地の翡翠は、渓谷の神の印に相応しいと納得が行く。
(神殺しの際に生まれた神───)
父の言葉の意味がわかった。そして誓約が行われた場所が清らかな水の湧き出る岩淵であった理由もだ。
御神体と耳の石と誓約と両親の会話がようやく一つに繋がった。
「……モラエマスカ?」
「はい?」
「手ヲ下ゲテモラエマスカ?」
「……ああ、すみません」
服の上から勾玉に手を重ねていたタカラはいつものように背筋を伸ばすと硬直した。
「オカシイなぁ」
でぃはタカラを見詰めた。
「ドウシテなのかなぁ?」
彩色が気に入らないのだろうか。でぃは尋常ではない速さで筆を動かしながら首を捻る。
「ネェ、タカラさん?」
「……はい?」
うっかり返事をしてしまう。動いてはいけないのに。
タカラを見るでぃの透き通った目がすぅっ、と細く笑う。
「私、寂シカッタんですよ」
(?)
「だからオ友達ガ沢山欲シクテ」
「なのにあなたはイツマデ経ッテモ私ノモノニハなってくれなくて……」
「…………」
様子がおかしい。でぃもそうだが自分もだ。
筆はカンバスとパレットの間をせわしなく往復している。でぃは時折タカラを見ながら「皆ハスケッチダケデ私ノモノニナッテくれたのに」と呟いている。
“何か言わなくては”と思っているのに声が出ない。口はおろか、体が動かない。
目だけはまだ動く。
「色マデつけているのに、マダ私のものにならないなんて……」
床に筆がカツン、と落ちて青い絵の具が付着する。
それを目で追いながら必死に体を動かそうとしたのだが、指一本動くことは無かった。
この動かない体は神が降りた後とは感じが違う。意識もはっきりしている。
「どうして?」
硬直したままのタカラの頬をでぃの両手が包む。その途端、左耳からいつもの漣が広がった。
かろうじて動く目で見上げると、でぃの片目が真っ赤に染まっている。
(しまった……)
返事をしてはいけなかったのだ。姿を写されていたというのに。
タカラはここに来て初めて“霊が狙っているのはでぃではなく自分だ”という事を自覚した。
おそらく、今まで行方不明になった者達もこうして姿を写し取られ、動けないように縛られ連れて行かれたのだ。
今、自分に語りかけているのは“でぃ”ではない。正確に言えば体は“でぃ”なのだが、それを操っているのは“でぃ”ではない。
「あなたなら一度に二人のお友達ができると思ったのに」
でぃはタカラの耳についている石を外そうと爪をたてた。薄く鋭い爪がプツリと音をたてて石の周囲に傷をつけてゆく。
比較的感覚の薄い耳の付け根に痛みが走った。
爪で抉っても石は取れないようだ。でぃは力を込めて石の周囲に爪を立てたが埒が明かず、顔を近付けると石の周囲を噛んだ。
激しい痛みが広がる。
「ねぇ、いるんでしょ? もう一人」
でぃはタカラの耳から伝う血液を舐めた。
「一緒に来てよ」
部屋の中が急速に暗くなってゆく。
霊がそうさせているのか、縛られてしまった自分の視界が失われてゆこうとしているのか区別がつかない。
体は動かないままだ。

ポタリ

タカラの耳から伝った血液が胸元に落ちる。
瞬間、校舎のどこかで爆発が起きたような音が響き、同時に閃光が走った。
「……何?」
でぃはタカラから身を離すと天井を仰いだ。
激しい雨が降り始めた。そして再び“ダーン”という音と同時に光が走る。
(雷?)
先程まで爽やかに晴れていた空が真っ黒な雲に覆われている。雲は時折緑色に光りながら校庭を激しく叩く雨を降らせていた。
タカラの胸元が光っている。慌てて制服のボタンを外すと下げられた勾玉が光を放っている。
呆然としながらその勾玉を見ているうちに体が元に戻っている事に気付いた。動くのだ。指も首も。
「……あなたは誰ですか?」
これだけの異変だ。そのうち祖父か母が駆け付けて来るに違いない。
非常に他力本願で情けないが自分には何もできないのだから仕方が無い。せいぜいこうやって時間を稼ぐぐらいだろう。
「あなたこそ誰?」
でぃは後ずさりながら距離を取った。
雷が勢いを増し、激しい音をたてながら何度も発光する。
タカラの体に覚えのある疼痛が広がってゆく。
あれだけ石をいじられたのだから仕方が無い。この間みたいな事になるかもしれない。
熱が息を吸う度に入り込む。しかし今までとは違い、圧迫感を全く感じない。
恍惚とした感覚は押し寄せて来るが意識もハッキリしている。
熱に満たされてゆくにつれ、自分の中にもう一つの人格が覚醒してゆくような気がした。
「僕はタカラですよ。依巫ですけどね」
手が熱い。見ると両掌に巴の紋様が浮かび上がっている。
タカラはそれを見るなり悟った。
今までとは全く違うのだが、神が降りている。
巴は奥宮の内部装飾に使われていて祀神の象徴とされている紋様だ。
意識が押しやられる様子は無い。むしろ同化してゆくような気がする。それが覚醒してゆくような感覚を生んでいるのかもしれない。
胸の前で拍手のように音を響かせながら両手の紋様を合わせ、ゆっくりと引き離す。両手の間には紋様から渦が湧き出でて繋がり、やがてその渦が消えると中から大きな剣が現れた。
本殿に祀られている神剣と形がそっくりだ。装飾についている浅黄色と白の絹地の総まで似ている。
「ちょっと待って……」
でぃは困った顔でタカラを制止した。
「何を、ですか?」
自分の顔がとても冷ややかな笑みを浮かべているのがわかる。
いつもの穏やかなものではない。もっと攻撃色の濃い、冷たい笑みだ。
「今すぐにでぃさんから出て行きなさい。さもないと……」
現れた剣を左手に握り、構える。
「駄目、できないわ!……ヤメテクダサイ…タカラサン」
「祓いますよ」
確かめなくても容易にわかる。今の自分は憑依霊など簡単に消し去る事ができる。
それだけではない。今までやりたくてもできなかった事が全てできる。霊視も結界も、呪いも何もかもだ。
勿論それは自分の力ではない。否、そうであるからこそ万能に思える。
もっと早くにこの勾玉を手に入れておけば良かった。祖父も母もいつも自分を半人前に扱うが、この勾玉さえあれば何の問題も無い。
寧ろ誰よりも秀でているような気さえする。当然だ。今の自分は神と一体なのだから力は神に等しい。
(マズい……)
タカラは高慢な感情の渦に飲み込まれてゆくのを自覚した。人間が神と同体した故に起こす錯覚に引きずられている。
このままではコントロールができない。
愚かな人間の感情の赴くままに神の力を使うのはとても危険な事だ。
依巫としての教育を受けてきたタカラはそれを充分承知しているつもりだ。祖父と母がこの話を執拗なほど繰り返してきたのはこの瞬間に彼が過ちを犯す道を辿らないようにするためだったのだろう。
人として神の力を“借りる”のだ。“神として振舞う”のではない。まして“自分が神と同じ力を得た”と思ってはならない。
(落ち着かなければ)
体中の血液が一滴残らず昂っている。手の中に預けられた力が大き過ぎる。
「天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄……」
左手に握った剣が雷鳴に合わせて明滅している。それが昂りを煽動している。
霊を祓うにはどうしたら良いのか判っている。
この手にした剣を断ち切るように振れば良いのだ。霊はあっという間にでぃの体を離れるだろう。
問答無用で振ってしまえばいい。すぐに事は終わる。そんな衝動が波になって押し寄せる。
(はやるな……)
先走ってはいけない。祖父か母の到着を待たなければ。自分は霊祓いの知識を持っていないのだから不測の事態が起きても対処ができない。そうなったらでぃが危険だ。
「……我身六根清浄なるが故に天地の神と同体なり」
額に汗が滲む。意識がありながら神懸るのがこんなに困難な事だとは思いもしなかった。
ハンドルもブレーキも利かない車に乗って暴走しているように翻弄されている。
赴くままに暴走してしまおうとする心と何とか自制しようとする心が激しくせめぎ合う。
「タカラサン……」
でぃは呆然と立ち尽くしたまま小さな声を絞り出した。
今話しているのは本物のでぃだ。相変わらず片目は紅い。が、見分ける事はできる。
「すぐに離れるのは無理よ。それに……でぃは私を受け入れてくれているわ」
また入れ替わった。
「受け入れている、とはどういう事ですか?」
「でぃは私の孤独と寂しさを理解してくれてた」
「理解?」
「私ハ彼女ノ憑依ヲ承知シマシタ。共存シテイルンデス」
「あなたは憑依を承知して受け入れているのですか?」
霊媒師でもないのにありえない。普通、霊は生身の者に無断で憑依し、双方がコミュニケーションを取ることは無い。そして望まれぬ様々な霊障を引き起こすものだ。
「彼女ハ誰ニモ見ツケテ貰エナクテ……孤独デ悲シイ存在デシタ」
「だからって! 自分に巣食わせて、他人の命まで……あなたは承知していたんですか?」
「違うわ、それは私が勝手にしていたの」
でぃに取り憑く前に比べたら孤独はだいぶ解消された。が、話してくれるのはでぃだけだ。自分の存在を認めてくれるのもでぃだけだ。長い時間ずっと孤独に耐えてきた彼女にとって、それは「まだまだ足りない」状態だった。
だから仲間が欲しかった。
自分を感じてくれる仲間が欲しくてでぃの体を時折支配しては姿を写し、絵の中に取り込んできた。
タカラが最初にでぃとすれ違った時に感じた大きな反応はそのせいだ。彼女は憑依している霊を介して数人の魂を連れ歩いていたのだ。
「……そうですか。安心しました」
“取り去るべきだ”
このままでは優しいでぃは苦しむ事になる。引き離してやらなければ。
「でぃさん、あなたが人殺しじゃなくて良かった」
“消し去るべきだ”
この自分勝手で忌まわしい霊を消し去ってしまおう。
「聞こえていますよね? 彼女をあなたの中から追い出そうと強く念じて下さい」
タカラの言葉に紅い目から幾条かの涙が伝う。
「でぃが私を一人ぼっちにする筈が無いわ!」
「一人ぼっちになんかなりませんよ。責任もって僕が消滅させて差し上げますから」
そうでないとこの霊は再びでぃに近付き、彼女を乗っ取り人殺しを繰り返すに違いない。
それをこの能力で救ってやるのだ。
「タカラサン!」
雷鳴が轟く。
「極て汚きも滞りなければ穢はあらじ 内外の玉垣清く浄しと申す……祓へ給え!」
周囲がハレーションを起こしたように真っ白になり、濃緑の龍が過ぎる。
軽く一振りした剣は教室の中に並んでいた机をなぎ払った。
机が吹き飛ぶ音は雷鳴の轟音にかき消され、立ち尽くしていたでぃは衝撃で壁まで吹き飛ばされた。その体に机がぶつかる。
でぃの体は緑の光で縛られ、だらりとうな垂れたまま宙に吊り上げられた。
雷鳴が再び響き、瞬間的に白い光が風景をかき消す。
次いで部屋の中の物という物が洗濯機の中で舞う布切れのように渦巻いた。天井の蛍光灯に机や石膏像がぶつかり、破片が降り注ぐ。
人に害を及ぼす忌まわしい霊など消し去ってしまって構わない。
でぃの体から銀色に光るものがすぅっ、と出てきた。体から霊を引き剥がす事に成功したのだ。
次の一振りであれを消し去れば良い。除霊など簡単だ。
タカラは不敵な笑みを浮かべた。
「清……」
「馬鹿者!」
教室のドアが外れそうな勢いで開き、ずぶ濡れの祖父が立ちはだかった。彼は片手に鏡を持ち、もう片手に勾玉の首飾りを持っている。
首飾りはタカラのものとは少々違っていた。
中央の勾玉は大きく、左右に配列された硝子玉や小玉の数も多い。そしてその合間に小さな翡翠の勾玉が4つ配されている。
「謹みて勧請奉る 御社なき磐境へ 降臨、鎮座仕給え」
祖父が勾玉を掲げて降臨の要文を唱えると、翡翠の勾玉はたちまち光を帯びた。それと同時にタカラの手から神剣が消滅する。
「!」
次いで祖父の胸元に大きな巴の神紋が現れ、彼の身長よりも長い丈の矛が構えた両手の間を結び、現れた。
「お……」
祖父の名を口にしようとしたタカラの体は急激に力を失い、崩れ落ちた。
ガラガラと掻き回されるように渦巻いていた机や椅子も次々と床に落ちる。それを避ける術もないままいくつも体に受けた。
自由が利かない。体が鉛のように重い。
先程までの昂りが嘘のように退いている。神剣を握っていた掌は神紋が消え、床に投げ出されていた。
「お願い、留まって頂戴」
どこかから母の声が聞こえる。
“タカラサン……”
でぃが呼んでいる。
銀色に光るものはタカラの傍に添うように近付き、耳の傷にそっと触れた。
力は消えてしまっているが何となく解る。今、自分の傷に触れているのは“でぃ”だ。
温かな感覚を耳に感じる。
間違いない。これは“でぃ”だ。
視線を巡らせると、母がでぃの体を抱き、額に手をあてて必死に呪いをかけている。
「完全に取り憑いている霊は分離させてからでないと祓うことはできん」
先程までの荒ぶる様子が嘘のように鎮まり、濃緑の龍は静かに祖父の背後に鎮座した。
(分離?)
「完全一致する魂はそうそうは無い。だがな、この娘達は“それ”だった」
(どういう……)
祖父の言っている事がよく解らない。完全一致していると何だというのだろうか。
「分離させずに祓おうとすると……生身の者の魂まで一緒に祓ってしまうのだ」
“だから言ったじゃない。すぐに離れるのは無理って”
銀色の物体が剥離するように2つに分かれた。聞き覚えがある。これは憑依していたあの霊だ。
「生身の者の魂が祓われる。それがどういう事か解っておるな?」
母に抱きかかえられたでぃの体を見る。その体には最早生気は宿っていない。
「力に舞い上がりおって。馬鹿者が」
(まさか……そんな……)
“解ッテイマス。ワザトジャナイ”
(僕が、でぃさんを殺してしまった……)
“タカラサンハ 私ヲ助ケヨウトシタダケ……”
“でも殺しちゃったじゃない”
神と同体するには並々ならぬ抑制力が必要になってくる。何度も話を聞いてきたのでそれは知っていた。
それでも自分は大丈夫だと思っていた。人の能力を超える力であろうとも「乗りこなせる」と思っていた。
意識が薄れてゆく。
銀色の物体は再び一つになると虚ろなタカラの目をじっと見詰め、ふいに消えた。
タカラの動かぬ体はでぃに詫びる事もままならず、意識は真っ黒に塗り潰されていった。



 目を覚ますと父と母が身を乗り出して覗き込んでいる。
体のあちこちが痛い。美術室の重い机の下敷きになったのだ。無理も無い。そう思ってからあの部屋の中で起きた全てを思い出した。
「…………」
「父さんを呼んで来るわね」
少しやつれた母は立ち上がるとそう言って出て行った。
部屋の中も窓の外も明るい。今は昼間らしい。あれからどのくらいの間意識を失っていたのだろうか。
体は痛みがあるものの、不都合無く動くようだ。
父は何も言わずに立ち上がると窓を少し開けた。澱んでいた空気が動き、新鮮な風が入り込んでくる。
自分がでぃを殺してしまった事は当然父も知っているのだろう。たぶん、そのせいで彼はここに居るのだ。
父は黙って窓の外を見ている。
責められない事がかえって苦しい。いっその事「何て事をしてくれたのだ」と怒りをぶつけられた方がマシな気がした。
後悔などという言葉では片付けられない。自分は人殺しだ。
でぃを殺してしまった。
死なせてしまったのではない。殺してしまったのだ。自分の浅はかさと驕り故に。
胸が苦しい。寝返りを打ち、海老のように丸くなる。ボロボロと溢れ出す涙が止まらない。
『人殺しに泣く権利なんか無い。一人前に傷付いた顔をするな』
どこからともなくそんな思いが湧き上がって自分を責める。
涙が溢れて止まらない瞼に生気の無くなったでぃの顔が焼きついていた。
「守りたかっただけなのに、中々思うようにはいかないものなんですよね。人って」
タカラがどんな顔をしているのか気付いているのだろう。父は窓の外を見ながら誰にとも無く呟いた。 「席を外してくれぬか?」
いつの間にかやって来た祖父が窓際に立つ父に言った。
部屋の中の空気が動く。父は毛布の上からタカラの頭をポン、と押さえると足音を残して出て行った。
「起き上がれるな?」
祖父は厳しい口調で切り出した。
頭まで毛布を被り、丸まっているタカラがどういう状態かを知ってて言っている。祖父として言っているのではない。この社の長として言っているのだ。
誰とも話したくない。が、それは“家族”故の甘えだ。
祖父は“神の力を預かる者同士”として向き合っているのだ。能力を使って人一人殺してしまったタカラには応える義務がある。
「…………はい」
声を出すと余計に涙がこみ上げた。堪えていた嗚咽が食いしばった口元から漏れる。
ぐしゃぐしゃになった顔を手の甲で拭い、起き上がる。
一瞬、頭の中がくらりと揺らいだ。一体何日を眠ったまま過ごしていたのだろうか。
「あれから1週間と2日経っておる」
(そんなに……)
もう学校でも騒ぎは一段落しているだろう。
振り返ると部屋の中に居るのは祖父と自分だけだった。能力に関係しない父が席を外したのは当然だが、母は居るような気がしていた。
祖父は床の上に正座をしてじっとタカラを見据えている。
「お前は人を殺してしまった」
「……はい」
祖父はタカラが姿勢を正して向かいに座るなり、母も父も避けていた言葉を面と向かって放った。
「言うまでもないが法律がお前を裁くことはない。殺した“手段”が常人ではできぬ、理解の範疇外の事なのでな」
「はい」
祖父はそれきり暫く黙ってしまった。何をどう話したら良いものか思案しているように見える。
「霊魂に“消して良い”ものなど一つもおらぬ。それがどんなに邪悪に染まっていようとも、だ。」
今ならば素直に頷ける。あの時は正常な判断を失っていた。
“悪いものだから消し去ってしまって当たり前”
そう思っていた。
「するべき事は消すことではない。我々は神ではないのだ」
「はい」
祖父は銀糸と紺糸で織り上げられた細長い筒袋を取り出した。
袋は口が折り返され、組紐が幾重にも巻かれている。
タカラはそれを手に取り、解いた。
短刀だ。
柄に見事な龍の彫刻が刻まれた刀だ。鞘を外すと洗練された金属の輝きがタカラの顔を映し出した。
「お前は何を以って贖う?」
その問いに答えるのは簡単だ。“死”だ。
人の命を取り上げてしまったのだ。死を以って贖う以外に考えられない。
切っ先を自分の喉に向け、柄を両手で握る。ぎっちりと握り締めているのに力が入らない。
手が震える。詫びる気持ちも贖う気持ちもあるのに死への恐怖に身動きが取れない。
「お前はその恐怖をあの娘らに向けた」
その通りだ。
「どんなに苦しみ喘ごうと見届けてやる。それが私の役目だ」
祖父には止める様子が全く見られない。彼はただ真っ直ぐにタカラを見詰め、喉元で光る刀が動くのを待っている。
死んで詫びよう。その意思はあるのにどうしても一突きができない。いざとなったらこんなにもみっともなく生にしがみ付く自分が情けない。そう思うのにやはり震える手はたった一つの動作をできずにいる。
「…………」
暫くすると祖父は黙って刀を握るタカラの指を一本一本、柄から剥がし始めた。
「どんなに悪い霊とて、この恐怖を向けてはならぬ。我々は神の力を借りて本来あるべき姿へ…浄化の手伝いをするのが役目だ」
刀は祖父の手中に戻された。
「無論、お前が勾玉を手に入れる日はまだまだ先と願って何も教えていなかった我々にも責任はある」
祖父は刀を逆手へと持ち替えた。
持ち帰られた刀はきらりと光り、トスン、と音をたててタカラの胸を突いた。
「!」
瞬間、息が詰まり、無意識に祖父の衣の袖にしがみ付く。
祖父の目を間近で見上げる。見守る者の深い情を湛えた目だ。
刀で突かれた胸がぐっしょりと濡れてゆく。
自分はこの恐怖と苦しみを人に与えてしまったのだ。自分の手で贖う事ができない以上、こうして貰う事が本望の筈だ。
タカラは目を閉じた。
これから血液を失いながらゆっくりと死を待つのだ。
きっと苦しいだろう。しかし、そうである事が自分への懲罰として相応しいのではないかとさえ思えた。
祖父の手から刀の柄がカラン、と音をたてて床に落ちる。
「二度と同じ過ちを犯してはならぬ」
衣服がぐっしょりと濡れている。しかし痛みも苦しみも感じない。
手で胸に触れてみると変わらぬ鼓動が続いている。
見下ろすと、刀で突かれた筈の胸元は水でぐっしょりと濡れているだけだった。
「…………」
「着替えなさい」
床に転がった柄を見ると刃の部分が消えて無くなっている。
祖父は柄のみになってしまった刀と鞘を拾うと、継ぎ口を合わせて袋にしまった。
「“清浄の刀”は赦された者を傷付ける事はできぬ。内に在った罪のみを切ったのだろう」
「僕は、自分の罪を無かった事にするなんて望んでいません!」
救われたいのではない、贖いたいのだ。
祖父はタカラの胸の内を知ってか知らずか、行方不明になっていた生徒達の事を話し始めた。
「彼等は絵の中に閉じ込められていただけで命を奪われたわけではなかった」
今はすでに全員が解放され、日常に戻っている。霊に重さを感じていたのは数人集まっていたせいもあるが、生霊だったせいもある。
あの霊は根からの悪い霊ではなかったのだ。
「彼女は寂しさのあまりあんな事をしてしまったのだろう」
もう何十年も前に誘拐されて殺され、人里離れた深い山の中に捨てられた娘の霊だと祖父は語った。
そのまま体が朽ちてしまっても誰にも見つけて貰えず、ずっと孤独な時間を渡って来たらしい。
でぃとは背丈体格は勿論、体の傷の一つ一つまでが奇跡のように一致していた。
そのために完全に取り憑く事ができたようで、二人の魂はでぃの体の中で僅かなズレも無く重なって存在できていた。
「憑依と言っても皆一様ではない」
祖父がそこまで話し終えると、部屋のドアがコンコン、と音を立てた。
「お客様が見えました」
薄く開いたドアの向こうに母の顔が見える。
「………しっかり詫びなさい」
祖父は話を途中で打ち切ると筒袋を持って部屋を出た。
(?)
「コンニチハ」
声を聞き、思わず客に足があるかどうか確認してしまった。
廊下に小さな花束を持って立っていた客は“でぃ”本人だったからだ。
「でぃ……さん?」
「心配シマシタ。一週間以上モ起キナクテ」
確かに銀色の魂はでぃの体から切り離されてしまっていた。生気の無い姿は主を失った骸だった。
「タカラサンガ二度ト目覚メナカッタラドウシヨウカト……」
そこまで話すとでぃは目尻に浮かんだ透明な玉を指で拭った。
「でも……僕は、確かに」
タカラはふらふらと立ち上がり、花を持つでぃの腕に触れた。幻ではない。実体がある。
「ハイ、死ニマシタ。私ハ死ンデイマス」
でぃはわけのわからない言葉を言うと呆然としているタカラの手に花を渡し、タカラの耳の傷跡に触れた。
「痛カッタデショウ?」
噛み傷なんてどうでも良かった。耳の温かさに我に返ったタカラは両手を付き、床に額を押し当てた。
「申し訳ありません! 僕が浅はかで愚かだったために……」
許してもらえるとは思っていない。奇跡的に生き返ることができたとはいえ、一度は彼女を殺したのだ。
詫びる以外に何もできない。この先、ずっと責められ続けても仕方がない。
突然土下座をされたでぃは少し驚いた表情で床に膝をつくと「顔ヲ上ゲテクダサイ」と促した。
「机ガブツカッタ時ハ痛カッタデス」
見上げたでぃの口元が微かに笑む。
「ソレト、少シ怖カッタデス」
「……すみません」
再び額を床に押し当てる。
「デモモウ良インデス」
でぃの少し冷たい指先とうっすら温かい掌が頬に触れる。
「私ヲ守ロウトシテクレタンデスヨネ?」
声がかすれてうまく返事ができない。無知と思い上がりはあったものの、彼女を助けようという気持ちに偽りは無い。タカラはでぃの手を握り締めると何度も頷いた。
「良かった…生き返ってくれて……」
鼻の頭がツン、と痛み、目頭が熱くなる。
でぃはタカラに手を握られたまま困った顔で言葉を探した。
「アノ、タカラサン? 私……死んでるって言ってんでしょ?」
「はい?」
急に刺々しくなった口調のでぃを呆然と見上げる。聞き違いだったのかと首を傾げると、でぃの黄金色の綺麗な瞳が片方だけ真っ赤に変わっていった。
「全く、人の話聞いてないでしょ? 死んでるって言ってんのに一人で盛り上がっちゃって馬鹿じゃないの?」
「…………」
この声には聞き覚えがある。あの霊だ。
「まだ…取り憑いてたんですか?」
「失礼ねっ! この馴れ馴れしい手、離してよ!」
タカラの手中に握られていた手が振り払われる。でぃは自由になった右手をプラプラと振ると立ち上がり、入ってきたドアからさっさと出て行った。
「あ、あのぉ……」
でぃはオロオロと呼び止めるタカラを無視して廊下を進み、居間を目指した。
「あら、シノちゃん。今お茶が入ったから持って行こうと…」
「こっちでいただきまーす」
“シノ”と呼ばれたでぃは母を手伝って台所から茶を運ぶと、ごく自然にテーブルに着いた。
遅れて入ってきた母がロールケーキを切り分けて2切れずつ皿に乗せ、差し出している。
受け取った祖父が「2切れもいらん」と一つをシノに渡し、父がコーヒーに入れるミルクを取ってあげている。
“シノ”はすっかりくつろいでいる。まるで家族のようにその場に溶け込んでいた。
「…………」
タカラは戸口に立ったままその光景を眺めていた。
「シノッタラ……アノ、マダタカラサンニ説明シテイナインデス」
どうやら入れ替わったようだ。
「ああ、それで…」
一同はタカラが呆然と立ち尽くしている理由に納得した。
でぃは確かに死亡した。母のかけた呪いも功を奏さず、完全に死んでしまっていた。
最早これまでと観念した二人は消えてしまった二つの銀色の霊魂と話をしようと呼び出した。 自分の家族がでぃの命を絶ってしまった事を詫び、どうやっても償いきれるものではないが、どうしたら気が済むかを訊いたのだ。
元々死んでいたシノは「別に」と償いを辞退した。
自分がこの騒ぎを引き起こした事も自覚していたので、絵の中に閉じ込められた人達の解放を依頼し、成仏できる立場のでぃとは別れて再び彷徨う覚悟でいた。
一方、でぃは「自分ヲ助ケヨウトシテシタ事ダカラ本人ヲ責メナイデ下サイ」と言うと、少しもじもじとしながら二つ目の要望を伝えた。
「アノ…タカラサンニ取リ憑イテイイデスカ?」
二人は意外な要望に驚いたが、成り行き上断れなかった。
成仏の機会を逃す事が彼女の幸せになる筈が無い。それは判ってはいたのだが、命を奪った責任はこちらにある。その上「どうしたら気が済むのか?」と訊いてしまったのだ。今更「それはしない方が良い」とは言えなかった。
「別ニ呪ッタリ祟ッタリハシマセン。タダ……タカラサンノ傍ニイタインデス」
少女の切ない望みを聞かされ、二人は背後霊でも何でもどうぞ、と承諾してしまった。
それを聞いたでぃは嬉しそうにタカラの体にピッタリと寄り添うと取り憑こうとした。が、中々うまく取り憑く事ができない。
姿形が全く異なるのでシノがやっていたように完全に憑依する事ができないのだ。その上石の作用か、霊は弾かれてしまい、うまく肩に乗ることもできない。
「下手くそね。こうやるのよ」
見かねたシノがでぃと重なり、すぅっ、とでぃの遺体に入って手本を示した。
「あ」
慣れ親しんだ入れ物は快適に操る事ができた。
でぃの遺体は目を開けると起き上がった。母がかけていた呪いも霊魂が留まるのを微妙にアシストしたらしい。
「良かったじゃない」
シノはでぃが生き返ったと思い、体を離れた。
と、かくん、とでぃの体は崩れるように倒れ、でぃの霊魂も外れてしまった。
「…………」
でぃは暫くの間自分の亡骸に入ったり出たりを繰り返したが、先程のようにうまく留まる事ができず、じっとシノを見た。
「……わかったわよ」
どうせ行く宛てがあるわけではないのだ。シノは観念するとでぃと重なり、亡骸に入り込んだ。
シノは亡骸と魂を繋ぐ接着剤として機能しているようだ。
体は二人の思い通りに動かす事ができ、まるで生きているように見える。しかし、脈は無く、呼吸もしていない。
体の腐食を防ぐために何とか心臓を動かし、呼吸をするように習慣づけ、とりあえずでぃは“生ける屍”となった。
それから毎日、でぃはこの家に通ってタカラを見舞い、それが終わるとシノが居間でお喋りをしながらくつろいだ。幽霊などが大嫌いな父も実体を伴っているのであまり抵抗は感じないらしい。普通に話し相手になっている。
「とにかく、シノちゃんが居るとでぃちゃんの魂を体の中に入れておくことができるの。だからこのまま二人で入っていてもらう事になったの。シノちゃんももう他の人の生霊を閉じ込めたりしないって約束してくれたし」
「だってここに来れば楽しいもん」
自分の存在をしっかり認識してくれて気味悪がらず、話相手になってくれるこの家の者を相当気に入ったようだ。
「遺体、捜して埋葬した方が良いんじゃないですか?」
「あら、そんな事して私が成仏しちゃったらでぃもこの体から抜けちゃうわよ。良いの?」
「…………」
良い筈が無い。だからといってこれからでぃと会う度に漏れなくシノとも会うのは遠慮したい気分だ。
「ホント、中々思うようにはいかないものなんですよね」
諦めろ、と言う意味だろう。父がコーヒーを啜りながら呟いた。



社務所で参拝客に御札を渡していると今日もでぃがやって来る。
彼女はいつもあちこちで写生をしたり、社務所で暇を持て余したタカラとお喋りをしたりして帰る。夏休みには巫女のアルバイトをしに来ることにもなった。
まだ体調管理が完全ではないでぃが自分達の目の届く所に居ると安心なのだ。
(巫女が死体の神社って……)
一応、神には伺いをたてた。が、別段拒否もしなかったので採用する事にしたのだ。意外に神は大雑把で気ままらしい。
取り上げられると思っていた勾玉はそのままタカラの身に着けることになった。
手始めに祖父から降臨の要文を教わり、練習しているのだが簡単にはいかないようでまだ成功した事は無い。
母からは占いと呪いを習い始めた。それは徐々に上達している。
「早クチャントシタ御祓イガデキルヨウニナルト良イデスネ」
「…………はい」
他意は無いのだろうが、時折向けられるでぃの言葉に落ち込む今日この頃である。

あとがきはありません。

http://1st.geocities.jp/okayanoiyo

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