「血を…下、さい」
ソファーに身を横たえたしぃはうわ言のように繰り返した。フサの指先を握る小さな手に力は無く、意識があるようには見えない。薄く開かれた瞳は虚ろで混濁の色をしている。
「足りないのか? 待ってろ、今……」
奇妙な言葉を真に受けたのか、ギコは周囲を見回すとテーブルに置いてあった小さなナイフを握った。
柄の部分に人魚の細工が施されたそれには見覚えがある。つーのものだ。
ギコは迷わずその刃を手首に添えた。
「何やってんだよ! 馬鹿野郎!」
そんな事をして何になると言うのだ? 散々振り回された挙句に心中でもする気でいるのだろうか?
フサはナイフを握る腕を取り押さえ、親友の身を傷付ける銀色の光を取り上げようと渾身の力を込めた。
「離せよっ! 早くしねぇと死んじまうんだよ!」
「離したらお前が死んじまうだろうがっ!」
力は互角だ。二人は一つのナイフを争って床に倒れ込み、ぶつかったテーブル上にあった硝子の花瓶が倒れて破片と水と花を散らせた。
しぃの為に手首を切って何になるというのだ。もうこれ以上黙ってはいられない。
「お前、知らねぇだろうけどな、しぃは……」
「うるせぇ! 黙れ!」
振り払った手にナイフが弾かれ、離れた床上でカラン、と音をたてる。
「わかってる。だから、言うな」
冷静を欠いているように思っていたが、真っ直ぐに見据えるギコの目はとても冷ややかだ。一瞬、彼を押さえ付けているというのに威圧されたような気がした。
「ウルセーナ」
階上からの声に振り返ると、変わり果てたつーがドアに掴まって立っている。
昨日までの彼女からは想像もつかないような弱りようだ。
「お前、どうしたんだよ?」
つーはフサの問いには答えずに時計を見上げた。正確に合わせられたそれは五時三十九分をさしている。
(何があったんだ?)





 一昨日、親友に“彼女”ができた。

最初にそれを知った時は驚いた。サーフィンの事しか頭に無かった奴だったからだ。
もし、奴にそういう存在の相手ができたとしてもきっと気の強い波乗り女に違いない。そう思っていただけに本当に驚いた。
サーフィンと無縁の少女は色白で、陽光の弱い秋の朝に日傘をさしていた。
少女は華奢な体に真っ白のワンピースを纏い、何かの雑誌で見た美しい海のような色の瞳でこちらを見詰め、鈴の音のような声で「お早うございます」と言った。
その瞬間、高原の澄み渡った風を浴びたような気がした程だ。
ゴミの混ざった鼠色の汚い砂浜と緑がかった茶色い波の風景の中、彼女だけがとても異質な存在だった。
勿論、それが悪いと言っているのではいない。とても愛くるしい少女だと思う。
その時には少女はまだ“彼女”ではなかった。ギコは地元の大会で優勝した腕前を少女に披露し、少女はとても嬉しそうな笑顔でそれを見詰めていた。
自分には新しい友人ができた。
サーフィンの腕前は大したもので、見た瞬間に“上手い”と思った。しなやかとでも言うのだろうか、弾力のある伸びやかな動きが海と呼応しているように見える。
真紅の肌に金色の瞳が印象的なそいつは例の少女の腕に下げられていたタオルで無造作に顔を拭きながら、二言三言何かを話し「無理スルナヨ」と声をかけると再び海に戻っていった。
その時すれ違いざまに「オ前ノ腕前見セロヨ」と聞こえた気がした。まさかと思って振り返るとそいつは不敵な笑みを浮かべて一瞥し、すぐに背を向けた。気のせいではない。挑発されている。
カッとなるほどの単細胞ではないが、腹の真ん中が疼く。冷静なつもりでいたのだが、気付いたら波間でヤツを追っていた。
久しぶりに得た期待だ。腕の良いヤツと競う事ができる。
ところがその期待は直前でお預けになった。
浜辺が急に騒がしくなり、人が一箇所に集まっている。
白い日傘が風に飛ばされて道路に上がる階段の際まで転がって行った。しかし誰もそんなものを気に留める様子は無い。
「ダカラ無理スルナッテ言ッタノニ」
ヤツは呆然としている俺を置き去りにして急いで浜辺に戻っていった。
人だかりの中心には例の少女が居た。彼女は青ざめた顔色で苦しそうに呼吸をし、その体を支えたギコがオロオロとしている。
少女は急いで戻ったヤツを見上げると泣きそうな顔で「ごめんね」と呟いた。
誰かが慌てて救急車を呼ぼうとしている。ヤツはそれを「単ナル発作ダカラ大丈夫ダ」と止めるとギコに家まで運んで欲しいと頼んだ。
ギコは二つ返事で少女を抱き上げ、ヤツの後に付いて行った。大切にしていたボードを砂浜に置き去りにしたままで。
少女は体が弱いらしい。それがまた仲間達の守護本能を掻き立てたようだ。
ギコもそうだったのかもしれない。奴がそんな性分なのは長い付き合いで知っている。
案の定、その日ギコは学校には来なかった。
あの少女の具合が相当悪かったのだろうか。そう思いながら放課後海に戻ると真相が目の前にあった。
堤防の上にギコと“日傘”が腰掛け、寄り添いながら海を見ている。
コンクリートの堤防肌に下がった二つの尻尾が観世縒りのように絡められ、誰もがその姿を見ただけで二人の間にどんな変化が起こったのかを容易く想像できた。
「痛てっ!」
ふいに後ろから髪を引っ張られる。
振り返った先にニヤニヤしながらボードを抱えて浜に降りてゆく者が居る。
“今朝ノ続キシヨウゼ”
挑発的な目がそう言っているように見えた。
「おい、コラ」
追いかけて肩を掴む。と、振り向きざまに赤い腕が風のような音をたてて頬を掠め、数本の髪がハラリと落ちた。
「ヨク避ケラレタナ」
すんでのところで避けた反射神経を褒めながら毛束を切り損ねたナイフをパチン、と閉じる。
「俺ハ“ツー”ダ。“コラ”ジャネーヨ」
ヤツはそれだけ言うとくるりと背中を向けて行ってしまった。開かれたシーガルのファスナーから黒いビキニの紐が覗いている。
(女?)
スレンダーな体なので線の細い少年かもしれないと思っていた。が、間近で見ると確かに女だ。肩幅や腰周り、腕の質感がやはり違う。
「コラ」と言われただけでナイフを振り回す。
(随分過激な女だな)
それがつーの第一印象だった。
「今、髪引っ張っただろ」
「長過ギテ鬱陶シカッタンデ、ツイ」
(俺の勝手だろ!)
フサは少し癖のある毛質だ。短くしてしまうとあちこち跳ねてしまって手のつけようが無い。それ故自分でも鬱陶しいほどに伸ばしていたのだ。伸ばしていると幾分、重みで落ち着く。
「今朝ノ続キト行コウゼ」
つーは睨まれていることなど気にも留めていない様子で背中のファスナーを上げると漣を蹴散らした。
沖で波待ちの状態になると、つーは岸辺に向かって手を振った。見るとギコの隣に座った少女も手を振っている。
「どういう知り合いだ?」
手を出す気は無いが、興味はあった。
ギコはあのいたいけな少女をどうやって口説いたのだろう、とか、サーフィンしか知らない男がサーフィンを知らない少女と何を話すのだろう、などといった他愛も無いことだが。
仲間達も同じ気持ちなのだろう、通りすがりに二言、三言冷やかしてゆく。
それほど青天の霹靂だったのだ。“ギコという波乗り男に彼女ができた”という現象は。
「妹ダ」
「妹お?!」
驚きのあまり素っ頓狂な声を上げる。
一体、どういう産み分けをしたらこんなに似ない姉妹ができるのだろう。似ているのは華奢な線だけだ。色も趣味も言動もあまりにも対照的過ぎる。
「十五歳ニナッタバッカリダ。早過ギタ」
つーはそう言うと表情を曇らせた。
「大丈夫だろ」
並んで座っている二人は土産物屋に並ぶ置物のように微笑ましい。きっと心配をする必要は無い。
「それより勝負な。波取った方が勝ち」
人の髪を引っ張る失礼な輩に手を付いて謝らせてやる。そう思いながら前髪をかき上げ、周囲を見る。
本来ならば危険なのでこんな勝負をしてはいけない。しかし今日ここに居る者達は全て仲間だ。合図を送るとよく見知った顔の連中は「やれやれ」という顔で見物を決め込んだ。
上手いとは言っても相手は女だ。接触ギリギリに迫れば怖がってプルアウトしてしまうだろう。怪我だけさせないように気をつければいい。
(まだ新しいしな)
塗ったばかりのワックスを撫でる。フサにしてみても新しいボードに傷を付けるのは避けたい。
二人は波間で暫く沖を見ていた。絶好の波を待っているのだ。
「来た」
「キタ」
悪戯を仕掛けた悪ガキのような声が同時にあがる。それが勝負の合図になった。
パドルを始めたつーは徐々にスピードを上げた。細い腕の割にはパワーがある。
つーを見送ったフサは波のピークを確認すると遅れてパドルを開始した。それでも普段から鍛えている腕があっさりとスタートの差を埋めてゆく。
うねりが迫る。
「悪ぃな」
軽くテールが持ち上がり、風を感じた途端に一瞬、ボードを沈める。
(貰った!)
沈めたボードの浮力を利用したフサはあっという間にテイクオフを果たした。
「せいぜい頑張ってドロップインしろよ!」
通常ならば先にテイクオフした者に優先権がある。マナーを守るのならばつーはこの波を諦め、譲らなければならない。しかしこれは波の取り合いだ。
「オ言葉ニ甘エテ」
つーはニヤリと笑うと回り込み、フサの進路上でテイクオフを果たした。接触ギリギリの位置だ。
(マジかよっ)
こんなケンカ腰なドロップインを仕掛ける女に初めて出会った。腕だけではない。彼女は相当度胸もあるらしい。
(追い出してやる!)
ビビらせてプルアウトさせれば良い。ライバルだって見ているのだ。度胸負けなんてみっともない真似はできない。
フサはこの勝負を見ているであろうギコの視線を意識し、チラリと堤防を見た。
「ハア?!」
思わずバランスを崩した。後から聞いた友人のコメントを借りるのならば、フサは「絵に描いたような見事なワイプアウト」を披露しながら派手な音をたて、塩水を飲んだ。
(う、嘘だろーっ!)
水面から顔を出すと遥か前方に鮮やかなカットバックをするつーの姿がある。そしてさらにその向こうには……往年のライバルと可憐な少女の濃厚なキスシーンがあった。
勝負に見入っていてフサがバランスを崩した理由に気付かなかった仲間達もつーを視線で追ううちに堤防の二人に気付いたのだろう、皆一様に固まった。
めちゃくちゃな女の“姉としての心配”は現実のものとなった。
負けたショックよりも何よりも、真っ先に頭に浮かんだのはギコの身の危険だ。
『逃げろ! ナイフで狩られるぞ!』そう叫ぼうかと思ったくらいだ。
ところが。
勝負を終えたつーはボードを抱えて波打ち際を歩きながら少女に勝利の手を振った。頬を上気させた少女は余韻に浸っているのか、ギコに凭れたまま潤んだ瞳でつーを見ると膝の上で申し訳程度に手を振り返した。
つーの視力が悪いのか、離れたタイミングが絶妙だったのか、とにかくギコの安全は確保された。
そうなるとやにわに腹が立ってくる。
「おまっ、何やってんだよ、馬鹿野郎っ! お前のせいで負けちまっただろうが!」
下から怒鳴り声を上げるとギコは少し動揺した顔で「勝負中によそ見なんかした自分が悪いんだろ」と言い返した。
彼はいつも「サーフィンはケンカじゃない」と言ってはこの手の勝負の行方には無関心だ。しかし乗っている者の技術はきちんと見ている。
そんな男が波乗りそっちのけで知り合ったばかりの少女といちゃいちゃしているのが心底信じられなかった。もしかして今はまだ授業中で、これは机に突っ伏して見ている夢なのではないかと思ったくらいだ。
「塩水ノ飲ミ過ギデ血圧デモ上ッタカ?」
「いでででで……」
後ろから髪を掴んで引っ張られ、これが夢ではないことを自覚する。
「勝負ハドウナッタ?」
サーフィンでギコ以外の奴に負けたことはここ数年無い。久しぶりの屈辱だ。
「ま……負けました」
「ジャア罰ゲームナ」
パチン。
銀色のナイフが目の前で光る。
(何で俺ばっかなんだよ!)
標的は可愛い妹に不埒な事をしていたギコの筈だろう。そう言いたい気持ちがフサに往生際の悪い抵抗をさせた。
「オトナシク刈ラレロ」
固まりの呪縛から開放された仲間達が徐々に海からあがり始め、無理矢理座らされたフサと上機嫌でナイフを動かすつーを囲み始めた。連中は口々に「じっとしてないと怪我するぞ」だの「坊主にしちまえ」だのと言いながら笑っている。
笑い声は暫くすると「おお」だの「へぇ」だのといった感心の声に変わり始めた。
「前髪ハ少シ長メニ残スゾ」
いつのまにか上半身のスーツを脱いだつーが真正面に膝立ちして屈み込む。金色の瞳が真剣に削いだ毛の流れを見ている。床屋ならば鏡があるのだがここは海だ。どんな姿にされているのか見当もつかない。
坊主ではないらしいがどの道短くされてしまえば跳ね放題だ。暫くの間は小学生の時のように「寝癖」と呼ばれるに違いない。
前髪を切られながら時折薄目をあけ、黒ビキニが描くなだらかな稜線を盗み見ながらそんな事を考えていた。


 “バカ”が付く程の海男だったギコはそれから夜になるまでずっと海に出ることもせず、夕方からのバイトも休んでしまった。
自分のライバルをそんな腑抜けにしてしまった少女に少しだけ苛立ちを感じる。
『奴の何処に惚れたんだ?』厭味まじりにそう聞いてやろうかと思ったが、近寄ると澄んだ風を浴びたような錯覚を起こして気持ち良さに何も言えなくなってしまう。
このままじゃギコは駄目男になる。仕方が無いので無理矢理呼んで“学校と海とバイトには出ろ”と言ったら奴は全部を拒んだ。
「悪ぃ。俺、しぃの傍を離れられない」
恋に狂ったバカ男の台詞だ。眩暈が起きるほどの激しい幻滅を覚える。
「しぃは俺が傍に居ないと死んじまうんだ」
今時三流の純愛ドラマにだってこんな台詞は無い。俺はこの言葉を聞いた瞬間“こいつはどこまでも骨抜きにされている”と確信した。
だから人の勝負中にあんな事ができたのだ。
(女にかまけてバイトを放り出すような奴じゃなかったのに)
苛々のぶつけ所が無くて乗っていたバイクを無闇にふかす。海沿いに大きく湾曲しているカーブを越えると薄闇の中に浮かんだ人影に気付いた。つーだ。
彼女は肌寒いくらいの夜に薄着で堤防に腰掛け、海を見ているのか空を見ているのかはっきりしない方を向いている。
「おい」
「“ツー”ダッテ言ッテンダロ」
つーは振り向きもせずに言い捨てた。
「寒くねぇの?」
バイクで走っていたせいもあるだろうがそれだけではない。つーはインナー無しで10月の海に出ていた。普通ならもう少し寒がる筈だ。
「別ニ」
暑がりなのか露出が好きなのか、秋の夜にヘソまで出してミニスカートを履く女は非常に寒そうに見える。
周りには誰もいない。あのべったりと寄り添った二人もさすがに帰ったようだ。
時計を見ると十一時を回っている。こんな時間に女が一人で呆けっとしているのは決して安全ではない。
そう思ってからあの銀色のナイフを鋭く操っていた腕を思い出し、余計な心配だったと考えを改めた。
「楽ダロ? ソノ頭」
「え?……ああ」
一体どんな散切り頭にしてくれたのかと思いきや、鏡を見て驚いた。
周りで見ていた者達は彼女のカット力に感嘆の声をあげていたのだ。
「ソレハ手入レガ楽デ、下手クソデモセットガ上手クイク」
わざわざパーマをあてて動きをつける者もいるスタイルだ。いつも気になっていた癖が全く気にならない。
「オ前ノ毛質ニハ合ッテルヨ。ズットソウ思ッテタ」
(ずっと?)
まるで以前からフサを知っていたかのような言い方だ。
つーは振り向くと訝しげな顔で自分を見ているフサに気付き、慌てて付け足した。
「今朝カラズット、ナ」
金色の瞳が昼間に見るよりも深く澄んだ色をしている。
「お前、美容師?」
癖毛の流れを読むなんて素人にできるものではない。そうでなければ肉親並みにずっと見てきていつもどの辺りがどっちに跳ねやすいのか、つむじがどこにあるのかを知っている者でなければ解らないだろう。
つーは「コンナ小サナナイフデ髪切ル美容師ガ居ルカヨ」と笑った。
言われてみればその通りだ。
何だ、ただ単に恐ろしく器用な女なのか。そう自分を納得させながら煙草を取り出す。頻繁にではないが、時々吸っている。勿論、『未成年なのを承知で』だ。
その途端、つーはひらりと堤防から降りると咥えていた煙草を取り上げた。咥えていたものだけではない。彼女は手をひらひらと動かすとポケットの中にあった残りまで素早く取り上げた。
「没収」
「何すんだよ」
「停学三日」
「!」
確かに今喫煙が見つかるのはまずかった。先月うっかり見つかって二日の停学処分を受けたばかりだ。
(何で知ってるんだよ?)
「余計なお世話だろ」
つーは取り上げた煙草を片手に呆れた顔でコンクリートに寄りかかると溜息をついた。
フサよりも二つ、いや、三つぐらい年上だろうか。態度を見ればわかる。これは相手をガキ扱いした態度だ。
「オ前ナ……何シニ学校行ッテンダ? コンナモンノセイデ何回モ停学食ラッタラ損ダロ」
「うるせえな。寝に行ってんだよ。朝海出て夕方海出て夜バイトしてっから昼学校で寝るんだよ」
勉強は嫌いだ。何の役にも立たないからだ。
別に底なしに馬鹿なわけではない。が、やりたい事を並べたら一番要らないものが勉強だった。あのスポットに集う仲間達も皆同じだ。
「切レ」
「あ?」
「エンジン切レ」
「いちいち指図すんな」
「クソガキ」
その言葉は聞き飽きている。意にそぐわない者への大人の捨て台詞だ。
「コンナモノヤ、ソンナモンデ無駄ナ毒気ヲ垂レ流シシテ……」
くしゃり、と煙草を握り潰す。
「誰ニケツ拭イテ貰ウンダ?」
「何だ、そりゃ。お前はどこかの環境団体の回し者か?」
周りを見れば皆がやっている事だ。大人達はもっと大きな規模の垂れ流しをして良い思いをしている。クソガキ一人の煙草やバイクに目くじらなど立てても意味は無い。
「親ガ泣クゾ」
「泣く親なんか居ねぇし」
八つの頃、満月の晩に母親は男と心中した。敬虔なクリスチャンだった彼女は“天国”には行けなかっただろう。フサの胸にさがっているクロスは裏切り者の馬鹿な女が唯一残したものだ。
父親はフサを祖母に預けて転勤を重ね、いつも家には居なかった。面倒を見てくれていた優しい祖母は一昨年、鬼籍に入った。
だからと言って世をすねて生きるつもりは無い。自分は自分のやりたいようにするだけだ。
母親の一件以来、ここに住みながら海が大嫌いだったフサを変えたのがギコであり、サーフィンだった。
彼は父親が波乗り好きで小学校に上るか上らないかの頃から海に出ている。
そんなギコから父親を奪ってしまったのが馬鹿な男女だった。
台風が近付いている大潮の夜に海に寄り付く者は居ない。馬鹿な男女はそんな日を心中に選んだのだ。
あともう一時間、彼の父親が海沿いを通るのが遅ければきっと今でも息子と波乗りをしていただろう。
『引止めに入っちまった親父も馬鹿だよな』
その話になるといつもギコはそう言って笑う。彼の『馬鹿』という言葉の響きには海を愛していた父親への敬愛が込められている。
「捨テラレタ訳ジャアルマイシ」
捨てられたも同然だ。仕事漬けの父はともかく、母親には───
「間違ッテイタカモシレナイケド…全テヲ賭ケルダケノ何カガアッタンダロ」
つーの手の中に銀色の光が宿る。
「…………」
フサは跨ったままのバイクのエンジンを止めるとコンクリートに寄りかかるつーの隣に立った。
細長い指先が暗闇に鈍い光を放つナイフを撫でる。その柄には凝った細工が施されていた。
(人魚?)
天を仰いでいるのか、水面を仰いでいるのか、人魚が身を反らせるような姿で目を閉じている。胸の前で手を組み、何かを祈っているのだろうか、それとも誰かを想っているのだろうか。
「俺達ハ親ヲ捨テテココニ来タ」
『お前はともかく、妹はどうするんだよ?』そう言おうとしたが言えなかった。
水平線を見るつーの目が心なしか水分を含んでいるように見えたからだ。 
「世の中、クソな親が多いんだな」
どんな事情があったのかなんて判らない。それでも十五歳になったばかりの妹を引き連れて捨ててきた親なんてロクなものではなかったのだろう、と想像する。
「良イ親ダッタゼ。今デモ好キダ。最後マデ俺達ノ心配シテ、泣イテ引キ止メテクレタ。捨テタツモリナンテ無カッタ」
つーはナイフを弄びながら「デモヤッパリ捨テタッテ事ニナルンダロウナ」と呟いた。
「じゃあ何で来たんだよ?」
そんな風に思うのならば病弱な妹を連れて帰れば良い。ギコは泣くハメになるだろうけれど。
「…………」
答えは返って来なかった。
傍らを見るとコンクリートに凭れて頬杖をついたつーがこちらを見ている。あんまり真っ直ぐに見られているので何となく気恥ずかしくなって顔を背ける。それでもなお感じる視線が気になり、少しバツの悪そうな顔を再び向けると小さく笑う吐息が聞こえた。
「何カニ“命ヲカケル”トシタラ、オ前ハ何ニ賭ケル?」
男勝りに波を乗りこなし、ナイフを振り回す彼女のイメージからは想像もつかないような穏やかな笑みをしている。
「何ニ賭ケル?」
「……さあな」
これと言って思い当たるものが無い。強いて言えばサーフィンぐらいだろうか。それですら“命あっての物種”のように思う。
「出会ッチマッタンダロウナ。オ前ノ母親ハ」
信仰も家族も、全てを捨ててしまえるほどのものに。
「正シカッタカドウカハ別トシテ」
ポケットの中に潰れた煙草が戻される。つーは「オヤスミ」の一言を残すと道路を渡って行ってしまった。



 朝凪の中、堤防にギコが腰掛けている。隣にしぃの姿が無い事に少しホッとする。
昨日の苛々を忘れて声をかけると、振り返った奴の目は少し赤く、理由を聞くと「あんまり寝ていないからか?」と笑って答えた。
「一人の時ぐらい海に出ればいいものを」と誘ってみたが、奴は何かに悩んだ顔をしながら首を横に振った。
どうやら盛り上がっていた二人の間に何かあったらしい。付き合い始めて一昼夜、いや、まだ24時間も経ってはいない。どうせこんな事だろうと思っていた。極端なのだ。
「吸うか?」
よれた煙草を差し出しながら相談にでも乗ってやるか、と朝の海を諦める。しかし、いつもならば一本取る手が伸びてこない。
奴は『煙草はやめた』と宣言した。
元々格好付けで始めたものだったのだが、それでもひっきりなしに噛んでいるガムに多少の“我慢”を感じたので咥えかけた煙草をクシャクシャの箱に戻してポケットに押し込む。
「バカにするならしてくれ」
そう前置きするとギコは話し始めた。
奴は真剣に“永遠の愛とはどういったものか?”と悩んでいる。馬鹿馬鹿しくて今口を開くとこの骨抜き野郎を罵倒してしまいそうな気がする。だから黙ったまま話を聞き続けた。
奴は思いつく限りの愛情表現をしたらしい。しかし、しぃは“自分は本気で愛されていない”と思っている。
「泣くんだよ。悲しそうに」
最初は忍ぶようにひっそりとだった。驚いて理由を聞こうとしたり慰めようとしているうちに段々思い詰めたようになっていったらしい。
だから思いつく愛の言葉を片っ端から連ね、考え付く限りの行動を重ねた。それでもしぃは“愛されていない”と思って泣く。
それを延々と繰り返し……昨夜は殆ど寝ずに過ごした。
どうして“愛されていない”と思うのか、理由を聞くと答えが返ってきたそうだ。
「じゃあその“理由”を解消すれば良いだろ?」
やっと発言しても大丈夫そうな言葉が見つかったので口を開く。すると奴は「その理由の解消の仕方がわからない」と頭を抱えた。
具体的にどうしろと言うのだろうか。恋愛に酔った女の望みそうな事なんて決まりきっている。しかしそれでは駄目だったらしい。
奴は彼女のために煙草もやめた。学校もサボり、顰蹙を買いながらバイトも休み、彼女の傍に居る。海にも出ていないし、おそらく昨夜は家にも帰っていない。これ以上何をすればいいのかなんてわからない。
お前のされている事は単なる“束縛”じゃないのか? そう聞くときっぱりとした答えが返ってきた。
「求められてしている事じゃない。全部自分の意思でやっていることだ」
……これはもう重症だ。親友を失う事になろうとも言っておかなければならない。そう覚悟をしなければならなかった。
「お前、まさか金まで貢ぐ気じゃないだろうな?」
放っておいたらギコはしぃのために全てを投げ出してしまうような危機をヒリヒリと感じた。憧れの海で波に乗るためにバイトをして溜めている渡航費用から下手をすると命まで、何もかもだ。
「……そうか、まだできる事があったな」
警鐘を鳴らしたつもりの言葉は奴にとって救いのアドバイスにしか聞こえなかったらしい。ギコは何を決心したのか、顔を上げると立ち去ろうとした。
「待てよ!」
慌てて引き止めようとすると堤防沿いの道をフラフラとやって来るしぃの姿が見えた。少し具合が悪いのか、苦しそうに見える。
ギコは引き止められている事にも気付かずしぃに駆け寄ると、小枝のように頼り無い体を抱きしめ、背中を丸めた。
二人は長い間一つになっていた。夜遊び帰りの暴走族が囃し立てる声など気にもせずに。
すぐ傍を歩くつーの姿を見て一瞬ドキリとする。今度こそギコはあのナイフの餌食になるかもしれない。
そう思っているとつーは二人を見咎めるでもなく通り過ぎた。
フサの緊張を察しているのか、つーは何も言わずに悪戯じみた目で通り過ぎ、すれ違いざまに軽く髪を引っ張ると階段を下りていった。
「なあ」
「何ダ?」
もし、今日も会えたら聞こうと思っていた。あれから家に帰ってふと、疑問に思ったのだ。
「俺、お前と会ったことあるのか?」
「昨日。モウ忘レタノカ?」
「そうじゃなくて!」
髪の癖のことも母親のことも、まるで今までの自分を知っているかのようだった。
「ココニ来タノハ昨日ガ初メテダ」
「嘘つけ。お前色々知っるみたいだったじゃねーか」
「嘘ハツイテイナイ」
つーは素っ気無く答えると砂浜を突っ切り、波打ち際に居た連中と海を見ながら話を始めた。
地元の者で心中の話を知らない者はいない。もしかしたら昨日、自分がここに来る前に話を聞いたのかもしれない。
そうも考えた。
しかし、ここに集まっている者達は当時の自分を知っていて、どちらかというと好奇の目から遠ざけるようにしてくれた気の良い者ばかりだ。新参者にいきなりペラペラ話すとは思えない。
別に知られた所で困る事は無い。もうずっと以前の話なのだ。動揺なんてするほど弱くは無い。
ただ、あんな風に言われたのは初めてだった。
普通は好奇の目で見るか、大げさに同情をして見せるか、話自体を避けてしまうかなのに、彼女はそのどれでもなく、あまつさえ母親の見詰めていた“何か”を指差したのだ。
(変なヤツ)
嫌な気はしなかった。
寧ろずっと胸の中につかえていたものが溶けていったような気がしていた。


晴れ渡った海は穏やかで、少々物足りない波ばかりがやって来る。
「どうにかならねーの?」
「何ガ?」
「お前の妹」
その一言で彼女はフサの言いたい事を理解したのだろう、困った顔で笑いながら「マアナ」と相槌を打った。
視線の先には砂浜に座る二人の姿がある。
放課後海にやって来ると案の定、学校を休んだギコはしぃと一緒に浜辺に居た。
姉は『マダ早過ギル』と妹を心配していた割には何の忠告もしていないのか、学校にも行かずに一日中男とベッタリしているのを容認してしまっている。
彼女自身も朝から晩まで海に出ている。二人は『親を捨てて』まで家を飛び出して何をしにここに来たのか、見当も付かない。
「悪イナ。シィハ白クテ弱イカラ……必死ナンダ」
つーはわけの解らない謝罪を口にした。
「上手ク行クト良イケドナ」
本気でそう願っているのならば『相手を束縛するな』と忠告した方が良いのかもしれない。
二人は板の上に跨ると水面上で休憩がてら話を始めた。
「永遠の愛だってさ。ガキの言う事は現実離れしてて理解できねぇよ。悩んでたぜ、ギコの奴」
姉に厭味を言っても仕方が無い。それは解っているがつい、言ってしまう。
つーは気を悪くしたのか、何か考えているのか何も言わずに黙りこんでいる。
言い過ぎた、と後悔をする。どんなに現実離れな言動をしたとしても、親許を飛び出して来る時に連れ出した妹だ。悪く言われて気分が良い筈が無い。
「オ前ナラドウスル?」
金色の瞳は並んで座る二人を見ている。
「アル日、イキナリヤッテ来タ女ニ“永遠の愛”ヲ誓ッテクレ、ナンテ言ワレタラドウスル?」
混ぜっ返しているわけではないのは表情で解った。つーは真剣に訊いている。
「どうするって……」
本音を言えば重たいと思うだろう。そういう鬱陶しい女はできれば避けたい。
きっと別れ話になった時にも揉めるだろうし、下手をすればストーカーのようになってしまうかもしれない。
しかし、心底好きになった相手にはどう答えるかわからない。恋愛一つのために命を投げ出してしまえる者も居るのだ。
自分は決してそういうタイプではないと思う。むしろギコのような一途なタイプの方が陥りやすいのかもしれない。
「ヤッパリ重イヨナ」
本音と建前の狭間で無難な返答を探していたフサはその一言に内心ホッとした。やはり姉だけのことはある。彼女は大人だ。
「まあ、色んな場合があるからな」
厭味の詫びというわけではないが、少しばかりの寛容を示す。
『永遠の愛を誓え』などと言うのは大抵の場合、周りはおろか相手すら見えていないのではないかと思う。そんな事を言っている者に限ってあっという間に醒めてしまうものだ。
醒めやすい、という意味ではない。
盲目的な恋愛をしている者に限って相手の良い所しか見ていない、と言った方がいいかもしれない。だから相手の悪い所は見えないか、見えても無かった事にしてしまう。
そんな風に過ごしているうちに盛り上がりに慣れてくる。どんなご馳走でも毎日食べ続けていたら飽きるのと一緒だ。そうなると自分の意にそぐわない所が嫌と言うほど見えてくる。
良い所しか見ずにいた者はその時点で思うのだ。
“こんな筈じゃなかった”
実は最初から相手の全てを受け入れてはおらず、拒絶していたに過ぎないのだ。
勿論、普通は段々に受け入れてゆけるものだ。それに相手の良い所を見るのは大切だ。
しかし相手の良い所“しか”見ない事とは全く違う。まして“自分に都合が良いように相手を捻じ曲げて”そこを好きになるのはお門違いも甚だしい。
幼い恋にはそういう傾向があるように思う。
「お前だったら、そんな事言うか?」
永遠の愛を誓え、などという言葉を。
「言ウカモヨ?」
つーはそう言うとニヤニヤしながら振り返った。これはきっと本音ではない。面白がってわざと言っている顔だ。
(嘘つけ)
彼女は時折こんな風にフサをからかう。ガキ扱いをしてどんな顔をするのか楽しんでいる。それが悔しくてそっぽを向いた。
「言葉ダケデ誓ッテモ意味ハ無イ。相手ノ良イ所モ悪イ所モ、全部受ケ入レテ初メテ一生愛スルコトガデキルンダロ」
「!」
考えていた事を見透かされたのか、価値観が同じだったのかは判らない。
そのどちらでも構わない。
昨夜、つーと話した後に胸のつかえが溶けた理由がおぼろげながら解った気がした。
『俺もそう思う』
言おうとした言葉は波しぶきを浴びて喉の奥に引っ込んだ。パドルを始めたつーがわざとひっかけていったものだ。
呆気にとられて見送りながらハッと気付いて沖を見ると絶好の三角波が迫ってきている。
間に合わない、完全に出遅れだ。教えてくれればレギュラーを譲ってグーフィーで乗ったものを。
「テメー、狡ぃぞ!」
木馬に跨った子供のように揺れながらついたフサの悪態が抜け駆けしたつーの背中を虚しく追った。


 あんな二人の仲が長続きするとは到底思えない。希望も手伝ってかそう思ったのでバイト先には「性質の悪い風邪を引いて」と嘘をつき、それによってギコはクビを免れた。
派手にひっついている二人の噂はあっという間に広まっていたので、当然不審な顔をしながら聞いていたバイト仲間も居た。
それでも皆、以前のギコがどういう男だったのかを覚えていてくれた上、必死に訴える自分に同情してか、数日の猶予を考えてくれたらしい。何も言わずに黙々と仕事を始めてくれた。
何もかもを放り出してしまうのならばせめて人目に付かない場所にでも引きこもっていてくれれば助かるのに、二人は一日の殆どを海岸沿いで過ごしていた。堤防の上に腰掛たり、時々波に足を浸して歩いていたり。
『別れてしまえ』
そんな厄介な女とは。そう言いたいのを堪えながら携帯の向こうのギコに訊いた。
「朝の話。理由って何だよ?」
こんなに迷惑を被っているのだから聞いても罰は当たらないような気がした。いつもならば「ここだけの話」と口の堅さを信用してくれたに違いない。が、奴は暫くの間困ったように沈黙した後に「それは言えない」とポツリと言った。
永遠の愛を彼女と交わす。それ以外に“理由”を解消できる手立ては無いのだそうだ。
そんな馬鹿な話があるものか。それは女の我侭だ。“仕事と私”を天秤にかけろと言うのか? “夢と私”のどちらが大事か答えろと言うのか?
そんな事を言い出すのならば、お前はどうなんだ? と問い詰めてやれ。
サーフィンも学校もバイトも煙草も手放した俺にお前はどれだけの愛情を注いでいるつもりなのか? そう問い詰めてやれ。
興奮してしまってよく覚えていないが、そんなようなことをぶちまけた後に一方的に切ってしまった。
湿気高い風の吹き付けるカーブに差しかかると堤防に凭れた人影が見える。心のどこかでそれを期待していたフサはバイクを路肩に寄せ、エンジンを止めた。
「寒くねぇの?」
少し強い海風を受けながら、星一つ無い空を眺めていたつーはだるそうに振り返った。
今夜も彼女はここに居るような気がしていた。昨日より遅い帰りなのにも関わらず、ここで会えるような気がしていた。
さっきの電話でギコに酷い言い方をしてしまった。包み隠さぬ本心ではあるが、それをそのままぶつけてしまった自分に嫌気がさしている。
「ソンナニ寒イナラ温メテヤロウカ?」
つーはからかっているのか本気なのか判らない顔で傍らに立ったフサの頬に片手をあてがった。自分では気付かなかったが情けない顔をしていたのかもしれない。
「やっぱ寒いんだろ」
つーの指先は冷えきっていた。それでも触れられた頬に温かさを感じる。
冷たい指先に手を重ね、「温まりたいのは自分の方じゃねーのか?」と訊くと「強ガリガ言エルンナラ大丈夫ダナ」という声と共に頬の温もりは去っていった。
やはり情けない顔をしていたのだろう。
二人はそれきり、堤防に凭れたまま黙って風に吹かれていた。
『夜半から雨』という予報どおりの兆しなのだろう、厚い雲に覆われた空が海をより漆黒に染めている。大きなうねりが押し寄せる禍々しい生き物を想像させる。
海はざわざわと不安げな鳴き声を響かせ、時折走り抜ける車の灯りが打ち払おうとする矢のように流れてゆく。
「こんな夜だったら良かったんだ」
月も無く、ただ暗く垂れ込めた空と海。こんな真っ暗な世界だったならば、きっと心中する男女の存在になど誰も気付かなかっただろう。
この、禍々しい生き物の口に二人だけで吸い込まれてしまえば良かったのだ。
「そうすればギコの親父は死ななくて済んだ筈だ」
胸にさがるクロスを握り締める。
時折、暗い海を見ていると嫌でも傷が痛む。もうとっくに癒えたと自分に言い聞かせている傷は未だじくじくと痛み、時折血を流すのだ。
「オ前ノセイジャナイ」
「そんな事は解ってる」
引きずっていても仕方が無い。しかしそうしないと瓦解しそうになる気持ちを支えられない。
だから自分達を裏切った母親を憎み続ける。片手に握る十字に縋りながら。
解っているつもりだ。自分達は彼女にとって枷でしかなかった。“裏切られる程度”にしか愛されていなかった。
その思いが自分の内を虫喰い、空虚ゆえに縋らずにはいられない。そしてそれを誤魔化すために憎むのだ。
フサの中で怒りと負い目は常に背中合わせに在り続けた。
「俺ニハオ前ノ母親ノ気持チガ解ル」
全て失っても構わない程の情熱が星となって宿り、その輝きが胸を焼き焦がす。
「解りたくも無いな。裏切り者の気持ちなんか」
「裏切ッタワケジャナイ。止マレナカッタダケダ」
振り向くと、つーは堤防に突っ伏すように凭れ、穏やかな眠りに身を任せているかのように目を閉じている。
「俺モ同ジダカラ解ル。ダカラト言ッテ許シテヤレ、ナンテ言ワナイ。タダ、オ前ガ負イ目ヲ感ジル必要ハ無イ。オ前達ノ存在ガ彼女ヲ引キ止メラレナカッタトカ、死ニ向カワセタ、トカ、ソンナ事ジャ無イ」
いつの間にか海があげる鳴き声は気にならなくなっていた。いつもに比べて多少の荒さは残るものの、ただの波の音に戻っている。あの不安げな鳴き声なんかではない。
「自分ノ胸ニ宿ッテシマッタ星ニ導カレテ止マレナカッタ。ソレダケダ」
天を仰ぐ。零時を回った曇天は相変わらず真っ暗で、一条の光も落とさない。この暗雲さえ無ければ月の光が海を仄かに輝かせただろう。
「ダカラモウ十字ニ縋ッテ苦シムノハヤメロ」
フサはハッとして握り締めていたクロスから手を離した。
つーはこの胸にある傷を知っている。
他の者がするように、腫れ物に触るように慰めるでもなく、自己満足の為に暑苦しく励ますでもなく、その傷をただ見つめ、「それをいつまでも大事に弄って痛みに苦しまなくていい」と言っている。
『俺モ同ジダカラ解ル』
つーの内に、激しく突き動かす情熱がある。
親を捨てる結果になってしまっても止まれなかった、それほどの強い光彩を放つ星が彼女の胸を焼き焦がしている。
「お前は、何故ここに来たんだ?」
親を捨て、妹を連れて。
まさか日がな一日波乗りをしてブラブラ遊ぶために来たわけではあるまい。親も遊びに行く娘を涙ながらには止めるまい。
「逢イニ来タ」
「誰に?」
「誰ガテメーニ教エルカ」
つーは鼻で笑うと握っていた銀色の光を親指で撫でた。とても愛しいものを見つめているような目で。
「逢ッテ永遠ノ愛ヲ誓ッテクレ、ッテ言イニ来タ」
『お前だったら、そんな事言うか?』
『言ウカモヨ?』
昼間、波に揺られながら聞いた言葉を思い出す。
あの時はからかわれているのかと思っていた。しかし今、この目を見ていると本気だったのではないかと思える。
「デモ、気ガ変ワッタ。俺ハ何モ求メナイ。元々ソウイウ性分ジャナイシ」
つーはくるりと振り向き、上目遣いになって両手を口元近くで組むと小首を傾げて科を作り、フサの体にピッタリと密着させた。
「私ガシィミタイニ甘エタラ気持チ悪イデショ?」
甘ったるい鼻声に合わせて細い尻尾がフサの足をくすぐる。
「……今、物凄ぇ鳥肌が立った」
片頬を大げさに引き攣らせながら返す。そして一拍の間を置いて互いに腹を抱えて笑った。
鳥肌は冗談だ。本当は痛いほど胸が高鳴った。それをはぐらかすために言っただけだ。
「ヒデェ! コノクソガキ、ソコマデ笑ウカ?」
自分の大笑いを棚に上げたつーは蹴飛ばす仕草をしながら笑い続けた。
フサは蹴りを避けながら気付いた。いつの間にか彼女を相手に話すことが苛々を癒す手段になっている。
さっきまでの自己嫌悪と情け無い気持ちはいつの間にか和らいでいた。
「あ」
鼻の頭にポツリと冷たい雫が落ちた。厚い雲がとうとう自らの湿気に耐え切れなくなったのだ。
「降ッテキタナ」
雨はばらばらと音をたてて道路を濡らし、行き交う光の矢は次々に窓を拭い始めた。
つーは「ジャアナ」と言うと昨夜のように道路を渡り、そのまま白い洋館を目指して走り始めた。
「待てよ」
バイクにキーを挿したままなのも忘れて追い、額の上で掌を天に向けて翳したつーの手首を捉える。
「何ダヨ?」
手首を掴まれたつーは少し不安そうにフサを見上げた。
深みを帯びた金色の瞳がじっと見ている。その視線にぞくぞくとした緊張を覚えながら空いている方の手で首にさがったクロスを外す。
銀糸のような雨の中、クロスは鈍い光を放ちながら揺れ、見上げるつーの胸元に納まった。
「コレハ……」
「お前にやる。要らなきゃ捨てろ」
十字はもう必要ではない。
目の前に居る友人がこれに縋る枷を外してくれた。だからもうこの十字は自分の胸に無くても大丈夫だ。
別に信じられる女に出会ったら渡そうなどと思っていたわけではない。が、形見でもあるこの十字の行き着く場所は、口が悪くて強気で、どこか優しい波乗り女の胸であって欲しいと思ったのだ。
雨粒を含んだ風に吹かれながらふと、気付く。
澄んだ風を感じる。初めてしぃに会った時に感じたものと同じだ。あれから何度かしぃと向かい合った時にも同じ風を感じていた。
思わず大きく息を吸い込みたくなるのだ。この風を受けると。
幼くて、無垢な少女への物珍しさがそう感じさせているのかと思っていた。
しかし、それは違っていた。
しぃほどはっきりとは感じないが、同じ風をつーからも感じる。
フサは心持ち身を傾けてその風をゆっくりと胸に留めた。
「少シハ温マッタカ?」
つーはそれだけ言うと掴まれていた手を解き、行ってしまった。
男とか女とか、そんなものを越えた部分で心を許せる、そんな気がした。
今さっき胸に吸い込んだ風が傷口を乾かしてゆく。癒しているのではない。ただ乾かしている。
癒さなくていい。それはきっと自分の力でしかできないことなのだ。



 午前中に雨はあがった。
放課後、学校近くの海岸沿いを歩いていたフサはしぃを見かけた。
ただ見かけただけなら良かったのだが、彼女は許す事など到底できない場面の中に収まっていた。
あんな場面に遭遇してしまった運を呪いたいと思う一方で、咄嗟に隠れてしまった自分が情けない。
彼女は声をかけてきた見ず知らずの男とほんの少し言葉を交わし、いとも簡単に淡い桃色の唇を貪らせていた。
ギコが悩み抜いて永遠の愛を模索している間に彼女はこんな事をしている。それが許せなくて堪らなかった。
これだから女は信用できない。平気で裏切る生き物なのだ。
この事実をギコに話したらどうなるだろう? 自分を信じるだろうか? それとも苦しそうに呼吸をしながら涙を浮かべる彼女の嘘を信じるのだろうか?
胸のクロスに手をやろうとしてふと気付く。それは昨夜、初めて“信じられる”と思った女にあげてしまったのだ。
「見つけた!」
浜に下りる階段に座り込み、どうやってギコの目を覚まさせてやろうかと考えていると上から声が降ってきた。
見ると堤防の上からしぃの顔が覗き込んでいる。
しぃは一旦コンクリートの向こうへ消えると階段の一番上に現れ、真っ白なワンピースの裾をひらひらさせながら下り始めた。
話すことなど何も無い。今面と向かったら生まれて初めて女の顔を叩いてしまうかもしれない。そんな予感がした。
しかししぃはお構い無しに下りて来ると切らせた息を整えもせずに言った。
「お願い、うちに来て!」
“こいつは何を言っているのだろう?”フサの頭の中でその言葉だけが何度も響いた。
「お前さぁ」
まだ学生のギコにできる精一杯の愛情が形になったものなのだろう、白い真珠がしぃの指に光っている。奴の夢を叶えるために費やした時間と労力は遂に小さな指輪に姿を変えてしまった。その光沢をじっと見詰めながら煙草を取り出して咥える。
しぃは煙草の煙を徹底的に避けている。それを知っていてわざとそれに火を点けた。そうする事によってかろうじて女の顔を叩く衝動を抑えることができそうな気がしたからだ。
「“永遠の愛”が欲しいんだって? 散々振り回してそんなものまで買わせて、それ付けたまま奴が見てない所で裏切って?」
煙が幾条かの線を描きながらしぃに向かって流れる。
「…………」
しぃは先程の行為を全て見られていた事を悟ったようだ。涙目を少しだけ伏せ、安売りをしていた唇をキュッと結んだ。
「お願いします」
暫くの沈黙の後、しぃはようやく口を開いた。
「うちに来て、つーちゃんに会って下さい」
波音にかき消されそうな小さい声だった。しぃは血色の悪い顔を俯かせて手で覆った。
「あなたの言う事は何でも聞きます。だから……お願いします」
「…………」
しぃは無言で立ち去ろうとしたフサに再度「つーに会って欲しい」と哀願した。
その訴えがあまりにも必死だったので理由を尋ねようかどうしようか、迷った足を止めた。
「具合が悪いの。治せるのはあなただけなの」
医者でもない自分に治せる病気なんて聞いた事が無い。あるとすれば仮病ぐらいだろう。
結局返事も約束もしなかったが、しぃはそれ以上しつこくはして来なかった。追いかけてくるかと思った白いワンピース姿はそのまま階段の中程に座り込んだきり、じっとしていた。
今日はバイトが休みなのだから時間を気にせず海に出られる。それに、今彼女の家に行けば当然ギコとも顔を合わせる事になる。それは少しばかり気が重い。
いつものスポットに行くと仲間が数人、波間からこちらに手を振っている。
何となくそこにつーが居るような気がして姿を探したが、軽やかに飛沫をあげている姿はどこにも見つからなかった。
1時間ほど経つとギコがやって来て浜辺をキョロキョロと見渡している。その仕草から彼が何をしているのかはすぐに解った。
しぃを探しているのだ。
彼は砂浜を見渡し、一旦海岸を離れ、またすぐにやって来て覗き込んでいる。それからやって来た堤防沿いの道を遥かに見渡し、思い直したように反対側も遠くまでじっと見詰めた。
脳裏に焼きついた裏切りの行為と彼女の繰り返した“お願い”が交互に去来し、うっかりパーリングを起こしてひっくり返る。
先刻見た事を告げ口する結果になってしまいそうで声をかける気になれない。
もうこれ以上あの二人は一緒に居ない方が良い。その為には今、会わない方が良いのかもしれない。
もし、しぃにギコを騙し続ける気があるのならば、とっくに帰って親友の告げ口などに耳を貸さないようべったりと媚びている筈だ。
しかしそれをしていないという事は、多少なりとも咎める良心があったのだろうか。彼女がギコの許に戻らないのは手を引くという意思の表れのようにも受け取れる。
そう考えながら何事も無かったような顔で沖を見渡し、視線を戻してギョッとした。
靴を脱ぎ捨てたギコが服のまま真っ直ぐに海の中へ突っ込み始めたのだ。
(正気か?)
ギコは手を振り、仲間を呼びながら波の中を進み、近くに居た者に腕を掴まれると何かを話し始めた。
「どうしたんだ?」
続々と集まってくる仲間に彼はしぃの行方を聞いて回っていた。が、その殆どが知らないらしく、首を捻るか横に振るだけで居場所が判る事は無かった。
中には複雑な表情を浮かべながら視線を逸らし、首を捻っている者も居る。
自分以外にも彼女の裏切りを目撃した者が居る。フサは直感的にそう感じた。
「学校近くの海岸で見た」
「ホントか?」
もし、今行ったらギコは失望するような場面に出くわすかもしれない。そう思っていたので教えたくはなかったのだがつい、言ってしまった。
それ程しぃを探すギコが必死に見えたのだ。
ギコは短く礼を言うとすぐに引き上げ、ずぶ濡れの素足を無理矢理靴に捻り込んで走り去った。
三十分ぐらい経っただろうか。数人の仲間が振り返った先に目をやると白い服の少女を背負ったギコが通りをとぼとぼと歩いている。
その姿を見た途端、胸の中にあった小さな不安が急速に膨張した。
背負われている姿はどう見ても意識が無く、相当具合が悪そうだ。
あの時自分を追いかけて来なかったのはしぃが後ろめたさを感じているせいかと思っていた。しかし、そうではなく急に具合が悪くなったせいだとしたら……
そう思うと居ても立ってもいられず、通りを行くギコに駆け寄った。
しぃはぐったりとしていて『本当に生きているのか?』と聞きたくなるような顔色をしている。
「ラーメン屋の前から浜に降りれるだろ? あそこに座り込んで動けなくなってた」
それはあの話をした階段だ。
「お前が教えてくれなかったらヤバかったよ。ありがとな」
礼など言われる立場ではない。あの時、顔色が悪い事には気付いていたのだ。
「……血?」
白い服に所々汚れが付着している。それはすでに赤茶に変色し始めていたが一目でそれと判った。
「俺のだ」
ギコは指先に残る小さな傷跡を見せた。
傷口はもう乾いている。指を擦り合わせてそれを確認したギコはこれ以上白い服を汚さずに済むことに安心したのだろう、手を元に戻した。
「お前、つーに会ったか?」
「いや…今日はまだ会っていない」
しぃに「会ってくれ」と頼まれた事を何となく言い出せないまま曖昧に返事をする。
二人揃って同じような事を言い出すのだから本当に具合が悪いのだろう。自分に治せるかどうかは別として。
「一緒に来いよ」
言われなくてもそういう状況になっている。歩きながら話しているうちに仲間が見守るスポットからは離れ、少し先に白く小さな洋館が見えている。
庭木が茂った入り口を通り、鍵が開けっ放しになっていたドアを開く。
室内は一昔前に小洒落た洋館に住んでいた者が施した、見るからに“らしい”内装や調度品で埋め尽くされていた。
ギコは居間のソファーにしぃを寝かせると室内に伸びた階段を登って手前の一室に消え、すぐに毛布を片手に降りて来た。
「血を…下、さい」
しぃは傍らに居たフサの指先に縋りながら小さな声で何度も繰り返した。意識が回復したのかと思って覗き込むと、薄く開かれた瞳は焦点を結んではおらず、混濁しているようだ。
「足りないのか? 待ってろ、今……」
テーブルの上に小さなナイフが置いてある。それはあの夜、海岸でつーの手の中に光っていたものだ。グリップに見覚えのある人魚の細工が施されている。
ギコはそれを握ると、何の躊躇いも無くその刃を手首に添えた。
「何やってんだよ! 馬鹿野郎!」
ナイフを持つ手を両手で掴み、刃を手首から遠のけようと力を込める。片手に対して両手を使っているので幾分分がある。しかしそれくらいではギコはやめようとはしなかった。
「離せっ! 早くしねぇと死んじまうんだよ!」
「離したらお前が死んじまうだろうがっ!」
床に倒れ込んだ拍子にテーブルの角に足をぶつける。上に乗っていた硝子の花瓶が倒れると同時に音をあげて崩れ、水が床まで伝って落ちた。
「お前、知らねぇだろうけどな、しぃは……」
もうこんな告げ口でギコの目を覚まさせることはできないかもしれない。それでもこの状態を放っておく事などできはしないのだ。
「うるせぇ! 黙れ!」
弾かれたナイフがテーブルの向こうに音をたてて落ちる。
「わかってる。だから、言うな」
ギコは真っ直ぐな目でそう言った。しぃと話をしたのかどうかは判らないが、彼は彼女の裏切りを当然知っているように見えた。
「ウルセーナ」
階上からの声に振り返ると、細く開いたドアからつーがほんの少し顔を覗かせている。
具合が良くないとは聞いていた。が、ドアにつかまって立つのがやっとといった姿に愕然とする。
「お前、どうしたんだよ?」
つーはフサの問いには答えずに虚ろな目で時計を見上げた。正確に合わせられたそれは五時三十九分をさしている。
「つーちゃ…せきに、ち、……貰っ」
振り返るとしぃは発熱のただ中にあった。横向きになり、丸めた体がガクガクと震えている。
ソファーの上で跳ねそうな程の震えに歯の根が合わない。
ギコはしぃに上体を乗せて覆い被さり、毛布の上から押さえながら背中や腕を擦って温めた。
「はやく……」
硬く閉じたしぃの目から大粒の涙がボロボロと伝う。
「泣クナ。自分デ選ンダ道ダ」
つーはそう言うと自らの体を支えきれず床に座り込んだ。
思わず階段を駆け上がり、床に倒れ込もうとしているつーの体を抱き止める。
真紅の体は黒味を帯びていて、思っていたよりも随分弱っているのが判った。こんな状態の者を素人が治せるわけがない。
「つーちゃんは……ただ消えて無くなるためにここに来たの? 違うでしょ?」
気のせいかと思っていたのだがしぃは確実に回復している。彼女はつい先刻まで体を支配していた震えから解放され、ほんのりと上気した顔を階上に向けている。傍らのギコは落ち着いていた。
「お願い、つーちゃん。隻の血を貰って」
しぃの必死な願いにつーは「モウ遅インダヨ」と呟きながら静かに首を振った。
「……何だよ? “せき”って」
「お前の事だよ。お前はつーの“隻”、俺はしぃの“隻”」
「俺達ハ……対ヲ成ス片割レノ事ヲ“隻”ト呼ブ」
つーはフサの胸に頭を凭れると目を閉じた。

 『─────遠い昔、大切な故郷と仲間を捨てて逃げてしまった人達がいたの』

しぃはつーの代わりに話し始めた。
彼らは自分達の住む星を汚し続け、それに対して誰も警鐘を鳴らす者がいなかった。
科学力に秀で、薬品を次々に開発しては自分達の体を補強し続け、どんな環境にも耐え得る体に改善をしながら繁栄していたからだ。
しかし、それには限界があった。彼らはある時を境に次々と有毒物質による中毒死をし始め、それを食い止める手段は人工的に浄化した部屋の中で生きる事以外に見つからなかった。
星を綺麗にしようともせず、どんどん鼬ごっこを繰り返してきた報いが訪れたのだ。
彼らはその科学力と技術を駆使して新天地を求め、汚染されきった故郷を捨てた。
「私達はその末裔なの。あなた達が持っている免疫や抵抗力を殆ど持たないわ。ここで生きるためには免疫を貰わないとならないの」
故郷を捨てた彼らは死に絶えてしまったこの星を悲しみ、何世紀かを経た後、様子を見るために戻って来た。
幸いにして還元作用の強い物質を使っていたせいか、星は大幅に清浄を取り戻し、驚いた事に文明が息づいている。
進化の過程を考慮すると全てが死滅した星からここまで成長するにはもっと莫大な時間を要する筈だ。
“生息する知的生命体は取り残された者達の末裔である”
調査を重ねるうちに知的生命体は自分達と同じ遺伝子構造を持っている事が判明し、置き去りにしてしまった者達の中の一部が死に絶えず、汚染しきった環境の中で生き延び、抵抗力を身に付けたようだ、と結論付けた。
「調査はその後も続けられたわ。そして長い時間をかけてこの星の汚染が再び進行していることが判ったの」
それを受けて彼らの中で『戻ろう』という声と『戻ってはいけない』という声が起こり始めた。
二つの論にはそれぞれの言い分がある。
新たな汚染を放置していたら再び同じ運命を辿ってしまう。それを看過するわけにはいかない。
自分達が戻り、科学力や技術を提供する事で同じ過ちの繰り返しを食い止めたい。
それが前者の主張の願いであり、
散々汚染を繰り返した挙句、星も一部の者達も捨てて去った我々が今更舞い戻り、我が物顔に振舞うことなどできる筈が無い。この星は生き残って進化を遂げ、今住んでいる者達のものだ。既に我々のものではない以上、干渉してはならない。
それが後者の主張の思いだった。
今住んでいる者達の手によって、再びこの星は病み始めている。それは彼らが辿った道に酷似している。
同じ運命を目の当たりにする事に耐えられなかった彼らは極秘裏にこの星のいくつかの機関と接触を図った。
しかし、どこも“侵略”を警戒し、彼らの忠告と技術提供を表立って受け入れる機関は無い。
彼らは悩みぬいた末に“計画”を開始した。
「この星に降りる者は十五歳以上の女性に限られていて、勿論理由に関わらず住む者の命を奪わない事を宣誓しているわ。その他に、自らの身で環境を浄化し続けること、そしてそれぞれに決めた相手との合意と相思を得る事」
「…………」
「降りる事ができるのは年間日数と同じ人数まで。隻以外との組み合わせは許されない、違反には極刑を下す」
フサは腕の中でぐったりとしているつーに目を落とした。個人的にはこの話を知ったところでつーを見る目は変わらない。
しかし、年間数百人の者が降りているのだと思うと僅かな恐怖を禁じ得ないのも事実だ。恐ろしいのは“入り込まれていること”ではなく、“何も知らないまま何かの思惑の渦中に放り込まれること”なのだと思う。
「私達は自ら志願して、数年かけて色々な勉強や施術をされて隻になるの」
彼女らもまた“隻”と総称される。“隻”は片割れとなる“隻”を見つけ出し、準備が整い、覚悟が決まったら降りる事ができるのだ。
準備は整ったが対となる隻を見つけ出せずに辞めてゆく者も居る。いざとなったら怖気づいて降りずに辞めてゆく者も居る。
そうして一対になれた隻どうしの事を“雙”と呼ぶ。
「“そう”?」
しぃは頷いた。“二つで一組”という意味を持つ“雙”という名は、彼女の求めていた“永遠の愛”を交わした隻達のみが呼ばれる名だ。
「今までに、どれくらいの……」
どれくらいの者が雙となり、この星で暮らし始めているのだろうか。
しぃは質問に首を振った。
「まだ居ないわ。一組も」
「一組も?」
「居ないわ。一組も。私はそれが“侵略”ではない証だと思ってる」
彼女達には簡単に混血児を遺せないように厳しいハードルが課されている。
降りる前に決定した隻以外との組み合わせが認められない事も、常に自らの身で環境を浄化し続ける事も、免疫や抵抗力を持たない事も、全て彼女達が越えるべきとされているハードルなのだ。
「……免疫を貰えないとどうなるんだ?」
その問いにしぃは口を噤んだ。
「中毒死ダ」
「え?」
「“中毒死”ダ」
苦しそうな息の下でつーが呟いた。
「まさか……」
「本当よ」
しぃは短く肯定した。
「私達の体は免疫や抵抗力を持たないだけじゃないわ。水や空気の汚れを吸収する働きがあるの。志願した時からそういう体になるように色々な施術や投薬をされて数年でそういう体になるわ」
“自らの身で環境を浄化し続ける”
彼女達は存在しているだけで毒気を吸い続けるのだ。その上しぃは若年であるために紫外線の影響を受けやすく、弱い。
温かく降り注ぐ日差しや、穏やかに頬を撫でてゆく風の中にすら彼女達の体を蝕む棘は潜んでいる。
「だから免疫や抵抗力を貰えなかった者は吸収した毒素によって中毒死するわ。私が最初の日の朝に起こした症状は今のつーちゃんと一緒よ」
毒性の吸収率には個体差がある。しぃのように色素の薄い者は一般的に吸収率が高い。そういう者は隻と言葉も交わさないうちに症状が出てしまい、死んでしまう者も居る。
知り合えたとしても“たった一人の相手”として振り向いて貰えなかったり、幸運にも振り向いて貰えたがこの事を告白した途端に逃げ出されて中毒死を迎える者も居る。むしろそういう者の方が圧倒的多数なのだ。
吸収率の高い者は保護力の高い衣服で皮膚をある程度覆う事が認められている。しぃがいつも白い服を着、日傘を差していたのはその為で、逆につーが露出の高い服装でいたのもその為だ。
「……どうすれば良い?」
フサは腕に抱えたつーの体を少し抱き起こしながら尋ねた。先程よりも息苦しそうだ。
「俺だけが治せるって言ったよな? どうすれば良いんだ?」
「…………」
いつの間にしぃから離れたのか、階段を上ってきたギコがナイフを差し出した。
「指先をちょっと突くぐらいでいい。数滴で効果はある筈だ」
それがしぃの言っていた“血を下さい”なのだ。
しぃの服に付着していたギコの血は重症のしぃに咄嗟に与えるためにわざと負った怪我のものだ。
手首を切ろうとしたのは数滴与えたにも関わらず回復が遅く、“大量に与えなければ”という焦りからの行動だったのだろう。
しぃの容体は完全に落ち着いている。それ故ギコは大量に血液を与える必要が無くなったのだ。
研ぎ澄まされた切先がフサの指先を浅く突く。痛みを感じながら周囲を指で圧迫すると真紅の珠が浮かぶ。
「それを舐めさせるだけだ」
「それだけか?」
こんな簡単な事で済むのならばもっと早くにこうしてやれば良かった。そうしたらこんな苦しい思いをさせずに済んだだろう。
つーはフサの指先を認識する事もできなくなっている。それでも血の匂いを感じたのだろうか、微かに目を開き、再び閉じた。
苦しい呼吸に喘ぐ口に指を挿し込み、歯列の先にある舌に触れる。
舌は僅かに震え、フサの指先を舐めた。
(何で言わなかったんだ)
『俺ハ何モ求メナイ。元々ソウイウ性分ジャナイシ』
今思えばつーとの話の中にいくつかのキーワードは潜んでいた。
『シィハ白クテ弱イカラ……必死ナンダ』
ギコはこの話の全てを受け入れ、しぃを中毒死させないように片時も離れない道を選んだのだろう。
彼女達は免疫や抵抗力を経口摂取できる。しかしその秘密を隻以外の者に告知してはならない決まりになっている。ギコが“理由”を話せなかったのはその為だ。
高い効果は血液以外には望めない。
しかし“血を舐めさせる”姿は何も知らない者が見た場合異様に映る。小さいとはいえ痛みを伴う怪我を負わせなければならないリスクもある。それ故、一時しのぎにはその他の体液が使われる。
長い時間は持たないが、唾液は便利だ。
怪我を負う必要が無い上、唾液に触れるために唇に触れていても傍目には愛情行動にしか映らない。
あの時、しぃはフサを探そうと、排気ガスを浴び続けながら国道沿いをずっと歩いて来たのだ。おそらく激しい中毒症状に襲われていたのだろう。
フサはようやくしぃの“裏切り”の真意を理解した。
つーに会って欲しいと自分に言うまでは倒れるわけにはいかなかったのだ。
彼女は見ず知らずの者から無断で免疫を摂取して命を繋いだ。貞節を持たぬ少女のふりをして。
煙草の煙は酷だっただろう。
彼女にとって、それは「死ね」と言われたに等しい。いや、胸にナイフを刺す行為にすら相当する。
フサは“結果的に自分は彼女を叩くよりも酷い事をしていた”という事に今頃気が付いた。
つーの呼吸が安定し始めた。
暗色にくすんでいた肌が心なしか鮮明に戻り始めている。
抱えた体が熱を帯び、寒気を感じているのだろうか。身を摺り寄せて小刻みに震えている。
握った手の先だけがひどく冷たい。急激な熱の上昇はこれからだ。
毛布を受け取り、先刻ギコがしていたように包みながらガタガタと震える体を強く抱いて保定し、背中や上腕を擦って温める。
彼女の体の中で僅かな血液を基に恐ろしい程の速さで免疫が作られている。
嘘のような話を聞かされ“騙されている感”が否めなかったが、こんな現象を目の当たりにしたら信じないわけにはいかなかった。
暫くすると額に汗が浮き始め、氷のように冷たかった手は温かいものへと変化した。熱が上がりきったようだ。
熱に潤んだ目が開く。
つーは回復を自覚し、フサの手を掴んで指先にできた傷跡を目にすると、彼がどういう行動をとったのかを知り「スマナイ」と呟いた。
「定期的にこうしていれば大丈夫なのか?」
ニ、三日に一度血液を与えていれば生きてゆけるのだろうか。
「免疫が定着すればこうする必要も無くなる」
階段を下りながらギコは楽観的な声で言った。
「隻どうしの思いが一つになっている状態で“血液”を摂取すると免疫が定着する。そうなったらここで普通に暮らして行ける」
思いは愛情でなくてはならない。中毒死への恐れや同情では免疫は定着しない。それは彼女らの体内に仕掛けられた分泌物によって起こるようになっている。
その条件を全て満たした者達が“雙”となるのだ。
ギコは一昨日の段階でしぃに血液を与えていた。だが、彼女に免疫が定着する兆候は見られない。
それがあの「愛されていないと思う理由」だったのだ。それを解消するべく、ギコは散々模索し、自分にできる全てを投げうっては血液を与え……それでも免疫は定着せず、しぃは度々中毒症状に陥った。
「大丈夫、何とかなるだろ。しぃに免疫が定着するまで血なんて何度でも流せる」
「…………」
しぃはギコの言葉に俯いた。
「そんなに暗い顔すんなよ。きっとそのうち……」
ふと気付いたら苦しさを感じずに過ごしていた、という日が来る筈だ。
「ありがとう」
明朗な声が慰めの言葉を遮った。
まだ幼さの残る少女の指が白く光る真珠の環を外す。そしてその仕草の理由を理解できず、呆然としている少年の手を取るとそっと握らせ、離れた。
「困らせてばっかりで、ごめんなさい」
語尾が微かに震えた。
「何だよ? 解んねぇよ、何の冗談だよ?」
ギコは掌の上で光る真珠としぃとを交互に見ながら不器用に笑ってみせた。目の前で起こっている事が別離の宣言だという事くらい知っている。しかしそうされる理由が思い当たらない。
(もしかして……)
フサはあの階段での話を思い出した。事情を知らなかった自分がしぃにこうさせている。それ以外に考えられない。
「ちょっと待ってくれ」
しぃはフサの声に階上を振り返り、小さく首を横に振った。
「誰のせいでもないの」
「時間切レダ」
落ち着きを取り戻したつーが立ち上がった。信じられない回復力だ。だがまだ少しふらつきが残っている。
「時間切れ?」
すらりと伸びた真紅の足が階段を一段一段、ゆっくり辿る。
「俺達ニ与エラレタ時間ハ三日間。夜明ケカラ三日目ノ日暮レマデ。ソレマデニ免疫ガ定着シナケレバ時間切レダ」
「三日?」
いくら何でも短か過ぎる。しかし、時間制限があるのならば先刻しぃが言っていた“いまだに一組の誕生も無い雙”にも頷ける。
たったの三日で出会って、恋に落ち、秘密を打ち明け、血液を貰う。その間に体を蝕む毒性との戦いもある。
相手は誰でも良い訳ではない。たった一人だけだ。彼女達は長い年月をかけてモニター越しに相手を知り思いを寄せているが、この星に住まう隻にとっては“初めて会う得体の知れない赤の他人”だ。
「私達、明日の朝にはかえらなければならないの」
「そんな……」
「決マッテイタ事ダ」
しぃが中毒を承知でフサを探しに出たのはその時間が迫っていた為だ。彼女は何度血液を摂取しても免疫が定着しない自分よりも一度も血液を貰った事の無いつーに可能性を託そうと決心した。
時間の事をギコに告げることはなかった。それを知ったら彼はどんな無理をするのかと思うと言い出せなかったのだ。
「帰るって……」
「故郷ニカエルンダヨ」
つーは初めて会った時のような不敵な目をして笑った。
「期間を延ばすとか、戻って来るとかできないのか?」
しぃは首に下がる鎖を外した。銀色のそれには同じ色のペンダントトップが通されている。つーのナイフにある細工と同じ、人魚をあしらったものだ。
その鎖にギコの手の上に乗せられた指輪を通す。真珠は祈るような姿の人魚の細工にカチリと重なり、背伸びをしたしぃの手によってギコの首にさげられた。
「期間は延ばせないけど……きっとまたここに」
廻り戻る。
(たぶん、気付いて貰えないだろうけど……)
「戻って来るんだな? いつだ?」
「…………」
しぃは何も答えずに少し困った笑みを浮かべながら小首を傾げ、目を閉じた。
ギコの頬に朱が走る。程無く、ほんの一瞬の啄みを受けたしぃの唇が囁いた。
「お願い、出ていって。私達、かえるところを見られたくないの」
笑みは消え、代わりに切ないくらいの真剣な目が見上げていた。
「俺達モスルカ?」
からかい半分の表情でつーは二人を指差しながら訊いた。
「えっ……」
不意をつく問いに耳の先まで熱くなるのがわかる。
「冗談ニ決マッテルダロ」
つーは小気味良さそうに笑うと銀色のナイフを差出した。
「オ前ニヤル。要ラナキャ捨テロ」
胸の奥で焼き焦がされるような痛みを感じる。
自分は目の前に居る友人を、本当にただの“友人”だと思っているのだろうか。
痛みはそんな疑念を抱く事自体が既に彼女を“友人”として見てはいないと叫んでいる。
「お前は…“自分に免疫が定着するかもしれない”って思わないのか?」
それはあまりにも拙くて遠回しな告白だった。
つーは一瞬、泣き出しそうな目をし、すぐに無理矢理笑みを浮かべた。
「日暮レノ時刻ハ五時三十九分ダッタカラナ」
血液を摂取したのはそれより後だ。しかし、フサが言いたかったのはそんなことではない。
「帰ッテクレ。頼ムカラ」
時間切れを理由にしたつーはフサの求める答えを口にはしなかった。



 波の音に混じって時折国道を走る車の音が聞こえる。
離れた場所に点灯している街路灯がネックレスに通された銀色の細工と真珠の指輪を仄かに照らし、それを弄るギコが放心したように溜息をつく。
フサは手に握ったナイフの刃先と指先にできた切り傷を眺めながらずっと何かを考えていた。
堤防の上に腰掛けた二人は白い洋館のある方向を時折振り返ってはどうする事もできない思いに苛まれている。
帰れと言われても帰れない。しかしあんなに真剣な目で切願されて居座ることもできない。このままこうしてあの家を見上げながらまんじりともしない夜を過ごす事になるのだろうか。もう何時間もここでこうしている。
時は止まらない。こうしている間にも夜は更け、明朝が刻一刻と近付いて来ているのだ。
「なあ」
フサの声にギコが振り返る。
「変じゃねぇか?」
「変?」
フサはずっと黙って考え込んでいた事を話し出した。
三日間しか時間が与えられない彼女達が途中で毒性に負けた場合には“中毒死”だ。しかし、制限時間を越えてしまった場合は“帰還”だ。
ならば時間内でも死んでしまう前に救出してやれば良いではないか。
「何で帰れるんだ?」
言われてみれば合点がいかない。
“故郷ニカエルンダヨ”
そう言った時のつーの表情がやけに脳裏に焼きついている。計画の失敗者としてすごすご帰る様子ではない。凛としており、力強い意志を帯びた目をしていた。
「故郷って……」
「…………」
二人は暫くの間黙って手の中にある人魚の細工を見詰めた。
幼い頃に読み聞かされた童話に人魚の話があった。どんな話だったのかはよく覚えていない。が、あまり良い結末ではなかった気がする。
「あ!」
声を上げるのも弾かれたように駆け出すのも殆ど同時だった。

“かえるところを見られたくないの”

ソファーの上で膝を抱えたしぃは先刻と同じ言葉を呟いた。
「確カニ、見ラレタクハナイナ」
人魚姫は人間の世界に憧れ、一隻の船上の王子を見つけ、恋に落ちた。
日に日に募る思いから魔女と契約を交わし、声を失い、歩く度に激痛を伴う足を手に入れ、王子の近くで暮らし始める。しかし、王子と結婚する事ができずに海の泡になってしまうのだ。
“隻”という名は広い海の中を行く船から付けられた名だ。この星に降り立つ小さな小船がたった一隻の船に出会い、対を成し未来へ向かって進む。それが二つの種族の新しい船出となる。そんな希望を込めて名付けられたと聞いた。
しかし悉く消えてゆく娘達の命はいつしかもう一つの名で呼ばれ始めた。
「消える時……苦しいかなぁ?」
しぃは自分の手を照明に翳した。まだ何の変化も見せないこの体は夜明けと同時に分離を始める。
「水ト空気ニャ神経ハ無イダロ」
つーはしぃの隣に腰を下ろすと生涯を閉じるにはまだ幼過ぎる妹の頭を撫でた。
「そうだね。きっと何も感じないよね」
隻への思いを抱きながら、その身を空気と水に変えて消えてゆく娘達は“人魚姫”そのものだ。それ故一度も成功せぬ計画を、この星に伝わるお伽話になぞらえて「人魚姫計画」と呼ぶ者もいる。
「故郷ニ還ルンダ。悔イハ無イ」
「ずっとこの星の一部でいられるんだもんね」
二人の体は水と空気に分離し、故郷の一部となる。風となり、降り注ぐ雨となり、様々に姿を変えながらその循環の中で永遠に星を廻り浄化を続けるのだ。
「ねぇ、どうして告白しなかったの?」
身を乗り出して訊いてみる。不思議でたまらなかったのだ。自分達はそうしなければ話にならない存在なのだから。
「……ドウシテダロウナ?」
胸にさがるクロスを指先で摘み、くるくると回しながら自分に呆れる。フサを追い出してしまってからもずっと考えていたが何故なのかは自分にも解らなかった。
「俺もそれが知りたい」
「!」
開け放されたままの階上のドア口に追い出した筈の二人が立っている。
「何処カラ入ッテ……」
「二階から」
二階程度ならばよじ登るのは簡単だ。ここには小さな庭側にテラスがある。それを登ればあっさりベランダに入る事ができる。どうせドアを叩いた所で鍵を開けてはくれないだろうと思い、こっそりと裏へ回ったのだ。
「帰レ!」
「帰れるかよっ!」
二人の話を聞いてしまった今、余計に帰ることはできない。
「消えるって何だよ? 水と空気って何だよ?」
二人が明朝にどうなってしまうのか、本当はもう訊かなくても解ってしまっている。
だから“人魚”なのだ。
「何か避ける手は無いのか?」
「無イ。俺達ハ承知ノ上デ志願シタンダ」
成功しなかった人魚達がどうなるのか、充分に知っている。
時間をかけていくつものゲートを通り、泡となって消えていった幾千もの姿を見せられ、涙ながらに引き止める親と話をし、その都度意志確認を受け、それでもここへ来たのだ。
(これじゃあまるで人柱だ!)
この星を浄化するために捧げられてきた命は「彼ら」の“償い”だ。
決して侵す形にならぬように、力ずくで奪う事にならぬように。無理を知りながらまだ見ぬ“許しの日”を待ち望み、捧げられる祈りと償い。
「何でそんな志願を……」
「会いたかったの!」
階段を下りるギコの胸に飛び込みながらしぃは言った。
偶然モニターに映し出された水難事故。親を失い、ただ立ち尽くす少年達。
悲しみと傷を抱え、それでも顔を上げ歩き出す力強さ。
どんなに時間が流れても見失うことなどできなかった。海に向かう一途な瞳も、飛沫の中に躍る肩も、背中も。
それは何もかもを手放しても惜しくは無いと思えるほどの情熱となり、二人の少女の胸を焼き焦がした。
「全部失くしてもいいから傍に行きたかったの」

───人魚は愛する者の傍に辿り着いた。命を引き換えにする約束を手に、家族と離れ、声を失い、痛む足で歩きながら───

「……裏技とかはないのか?」
ギコは思い出したように呟いた。
「裏技?」
「ほら、あの童話の人魚だって助かる裏技があったろ?」
フサは物語の結末をおぼろげに思い出しながら聞き返した。
「王子を殺すってやつか?」
「それだよ」
「オ前ラ俺達ニ殺サレヨウッテノカ?」
つーは呆れた声をあげた。
そんな方法は無い。よしんばあったにしても、隻を殺して生き延びる道など選びたくはない。
隻には幸せになって欲しい。それは消えてゆく人魚たちが一人残らず願っていることだ。
「じゃあ、明日の朝までに俺の体がお前達と同じになる方法は? 凄い科学力なんだろ?」
ギコに次いで呟いたフサにつーは「ソンナモン探シテドウスルンダヨ?」と訊いた。言葉は否定しているが、背けた表情が戸惑っている。彼らが思い付きや冗談で言い出しているわけではない事を悟ったのだ。
「一緒に泡になる」
「馬鹿カ? オ前」
「かもな」
海で離れないように手を縛った男女がいた。
人だかりが浜辺を占拠し、やがてその者達はどこかへ運ばれていった。その光景が忘れられない。
“心中なんて馬鹿のする事だ”
ずっとそう思っていた。
しかし今、自分達の許に命を賭して降りて来た人魚達と同じ覚悟をする。それが自然で、何一つ手立てを持たない自分にできる最高の事であるように思えた。
きっとギコも同じように考えたからこそ、あの物語で成されなかった選択肢を口に出したに違いない。
人魚達は暫くの間何も言わず、両手を握りしめたまま動かなかった。
「一ツダケ、方法ガアル」
二人は顔を見合わせ、静かに告げると壁際に設えた引き出しから小さな瓶を取り出した。
「コノ薬ヲ飲メバ俺達ト同ジニナル」
それぞれの掌に乗せられた瓶の中には白い薬が一錠だけ入っている。
「でも、よく考えて。そんな事をしたら二人とも……」
「構わねぇよ」
フサはつーの掌から小瓶を取ると、少しも躊躇わずに白輝の粒を取り出し、飲み込んだ。
薬は氷のように冷たく、滑らかに体内へ落ちてゆく。その感触が消えると同時に体の中から清廉な風が巻き起こったような気がした。
「…………」
一方、ギコは小瓶を片手に躊躇していた。
「これ飲んじまうと夜明け前に苦しくなった時、何もしてやれなくなるのか?」
しぃの体は数時間しか持たない。
今この薬を飲んで彼女達と同じ体になってしまうと、中毒症状に苦しむしぃに何もしてやれなくなるかもしれない。
もしそうであればしぃは夜明けを待たずに逝かなくてはならない。
しぃはつーを振り返った。
「大丈夫ダ」
薬は陽光を浴びた際に体を“水と空気”に分解するだけの効き目しか持たない。
「免疫ハ消エナイ。一度ニ全テノ体質ヲ変エルマデノ科学力ハ無イ。俺達ガ免疫ヤ抵抗力ヲ持タナイノハ生マレツキダシ、毒性ヲ吸収スル体ニスルニハ最低二年ハカカル」
つーの説明を聞いたギコは「本当だな?」と念を押すと掌に出した薬を飲み込み、胸元を押さえて暫くの間じっとしていた。彼も同じように駆け巡る風を体内で感じたのだろう。
人魚達は夜明けまでの時間を海辺で過ごしたいと申し出た。
どこに居ても同じ運命ならば、少しでもこの星の息吹を感じる中に居たいと願ったのだ。
波音が響く海辺に出ると、東の空にひときわ明るい光が現れた。これからの季節を指し示す星だ。
「アレガ南ノ空ヲ通リ過ギルト夜ガ明ケル」
陽月の肌寒い空に輝く蒼白の炎は濃紺の空を巡り、やがて人魚らの終焉を告げる。
穏やかなのは何故だろう。
心中とはもっと悲愴なものだと思っていた。
二人の人魚は言葉少なに己の隻に寄り添うと至福の思いに目を閉じた。
淡々と繰り返す波の音の中、まだ誰も成し得ぬ“雙”がここに在る。
泡沫の夢だったとしても、確かにここに。



 大気が冷え込んできた。
「つーちゃん」
しぃはギコの肩に凭れたまま小さな声で呼んだ。少し苦しそうな声だ。夜明けが近付き、体が弱り始めてきたのだろう。
「苦シイノカ?」
頬に触れるフサの毛先が柔らかくて心地良い。つーは小さく返された「大丈夫」という声を聞きながら肩口に頬を埋め、間近に仰いだ頬に最期まで素直になれなかった唇を押し当てた。
二人に嘘をついてしまった。けれど後悔などしていない。
自分と運命を共にする、そう言ってくれただけで充分だった。
胸にさがる銀色のクロスを握り締める。
「眠っちゃったね」
彼らに飲ませた薬は死を与えるものではない。
体に蓄積された毒気や病、そして記憶を洗い流すものだ。入眠はその副作用に過ぎない。
それはたった一つだけ人魚に与えられた“自由”だ。消滅への恐怖に耐えられない者はそれを使って何も解らぬまま最期を迎えても良いし、隻に与えて自分を忘れさせても良い。勿論、そのどちらにも使わずにいても良い。
「忘レナイト辛イカラナ」
「うん」
それぞれが凭れた隻に意識はもう無い。彼らが次に目を開いた時には出会ってからの記憶全てを失っている筈だ。

“対成す隻はただ一人。巡り会い、永遠の愛情を交し雙となる”

それは奇跡に近い事なのかもしれない。与えられた時間はたったの三日だけなのだ。
人魚達は二つの愛情を誓っている。隻への愛情と、同じ重さで抱く星への愛情だ。
だから恋に殉じる事があろうとも、嘆き悲しむ事は無い。
己が身で星を浄化する事が、そこに生きる隻へ注ぐ愛情の印となるのだ。
永遠の愛を『手に入れる』ことはできない。
死ぬほどそれを求めたとしても、世界中を探したとしても、それを『手に入れること』はおそらく無い。
(もし、それがあるとしたら……)
しぃは肩を抱くギコの手にそっと手を重ねて思った。
注ぎ続ける愛情の中にしか存在しないものなのかもしれない。
『奪うもの』でも、『求めるもの』でも、『手に入れるもの』でもなく、与え続ける中にのみ存在するものなのかもしれない。
(ごめんなさい……)
瞼を閉じる。
未来を失った自分の内に、愛情が溢れている。それは涸れる事を知らぬ泉のように次から次へと湧き上がり、たった一人の隻へと注いでいる。
あんなに泣いて欲しがった“永遠の愛”が今、紛れもなく胸の中に存在している。
二人の人魚は眠っているそれぞれの隻をじっと見入っていたが、やがて静かに立ち上がった。
“行コウ”
“うん”
淡紅藤に染まり始めた漣は冷たく、波打ち際を歩く二人の人魚の足を幾度も撫でた。
体の内側でぷつり、ぷつりと細かな気泡が揺れ動く。薄明かりに晒された体の中で分離が始まっている。
明るくなってゆく空に蒼白の星は姿を滲ませ、徐々に見えなくなっていった。波にかき消された人魚達の足跡のように。
穏やかな波の音が、眠る二人の記憶を滲ませるように響く中、東の空にやっと上り始めた明星と白く光る月だけが人魚達の行方を見守っていた─────


 眩しさに目覚めると空はもうすっかり明るくなり、陽が登っていた。朝凪の時間帯なのだろうか、風が無い。
ギコはだるそうに首を振ると額から頭頂までをグシャグシャと掻き撫で、大きな溜息を一つついた。
「……なぁ」
足に付いた砂がさらさらと乾いて落ちてゆくのを手で払いながらフサは口を開いた。
「俺達、何でここに居るんだっけ?」
胸に何かがつかえている。それが何もできなかった自分への怒りだと気付くのに時間はかからなかった。
「……思い出せねぇな」
「…………」
「思い、出せねぇなっ!」
握り締めた拳が砂を打つ。ギコは肩を震わせながら同じ仕草を繰り返し、砂を握り締めた。
“それ”が人魚の唯一遺した願いならば、叶えてやりたい。
きっと彼はそう思っているのだろう。
「……ああ。思い出せないな」
フサは両手を組み、背中を丸めて額を乗せると硬く目を閉じた。
(忘れられるわけないだろ? 馬鹿野郎!)
『俺達の決心一つで満足してんじゃねぇよ!』そう怒鳴ったら二人の人魚に聞こえるだろうか?
漣が真っ白な泡を立てながら幾度も打ち寄せては返している。
遥か沖の彼方から澄んだ風が吹きつけ、高く青い空に巻き上がっていった。





 フサは煙草もバイクもぱったりとやめてしまった。
以前のように寝る時間を惜しんでは海に出ている。それはギコも同じだ。
彼らの会話の中で人魚の名が交わされる事は無い。ただ、二人は申し合わせたかのように“何の役にも立たない”筈の勉強を始めた。
水を、風を、少しでも綺麗にする方法を見つけたい。
今、この一瞬にも隻の傍で毒気を吸い込んでいる人魚達が、少しでも苦しさを感じずにいられるように。
一人でも多くの人魚達に希望に満ちた未来が訪れるように─────


本コテは丘夜野 伊代です。作品についての解説はサイト内「作品について」に掲載しております。

http://1st.geocities.jp/okayanoiyo

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