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物書きコーヒーブレイク

 来客を知らせる鈴の音色に隠れ、木製ドアの中央にぶら下げた「バーMONA ただいま開店準備中」の札が揺れるかすかな音を聞いた。時刻は正午を少し過ぎた頃。窓から差し込む陽光が明かりを点けていない店内を眩しく切り裂き、ここの開店時間である夕方までにはまだずいぶんと早いことを伝えている。
 間違って入ってきてしまった客はどんな言葉で追い返せば印象を悪くしないだろうかと考えながら振り返った私は、しかしそこにいた者の姿を見て開きかけた口を閉じた。掃除していた棚へ向き直り、いつもそうしているようにコーヒーを淹れるための機材やカップを取り出しながら挨拶の言葉を背後へ投げかける。
「今日はここで書くのかな。それとも私に試し読みしてほしいのかい」
「あ……いや、一応書きに来たんですけど、それより相談したいっていうか」
 予想外の返答に、思わず振り返って彼の姿をまじまじと見つめてしまった。ギコ族の平均からするとやや小柄で華奢な体に、端正ながらも気の弱そうな、というより実際そうでそれが表面に出ている顔立ち。普段から少し垂れ気味の耳が今日はまた一段と申し訳なさそうに垂れ下がっている。
 そんな見るからに多くのギコ族が就いている職種に向いていない彼は、ならばとプロの小説家を目指して特訓する傍ら、普段の日銭を稼ぐために私以外唯一の従業員としてこのバーでバイトをしている。元々読書好きな私はこうして開いていない時間の店を執筆スペースとして自由に使ってもいいと彼に約束し、その御代として彼の創った物語を最初に読む権利を得ている。お世辞にもまだプロの文章とは呼べないそれだが、少なくとも私にはとても大きな磨きがいのある宝石の原石に見えた。
「ふむ、それで、その相談というのは」
 店内のインテリアを兼ねて購入した年代物のサイフォンに井戸水とアルコールランプをセットしながら、私は尋ねる。彼がここに来てからまだ三ヶ月ほどだが、私はその三ヶ月で自分の息子ほどの歳をした彼のことがすっかり放っておけなくなってしまっていた。
「えと、なんていうかその……単純に、スランプで悩んでるんです」
 ほう、と思わず言葉が口から漏れる。水が沸騰し始めたのを確認し、挽いておいた豆を用意しながら話の続きに耳を傾ける。
「作品が書けなくなったわけじゃないんです。ただ……完成したものに自信が持てない。描写はこれでいいのか、台詞はこれでいいのか、この世界観は受け入れられるのか……そんなことを考え出すと止まらなくなっちゃって、俺、どうしていいか分からないんです」
 サイフォンの上部に二人分の豆を投入し、そこへ沸騰しきった水がせり上がる。苦味まで混ぜてしまわないよう優しく木ベラで数回かき混ぜ、アルコールランプの位置を中心から外して蒸らしに入る。時間を計るための砂時計も忘れない。
「……これは私の持論なんだけどね、物語というのは料理と同じなんだ」
 言ってから何か例えに使えるものはないかと冷蔵庫の戸を開き、そこに業務用のパックに収まった卵を見つけて一つ手に取る。砂時計の砂がちょうど全て落ちきったのを確認して炎を消し、もう一度軽くコーヒーをかき混ぜる。
「例えばだ。この卵は地球という舞台設定で、この卵を使って作られた料理、つまり物語は“地球で起こった物語”になるんだよ」
 まず、食材という名の世界観を用意する。時代、場所、登場人物、神や魔法の存在――そういった物語を構成する要素を、料理に使う食材を選別するのと同じように揃えることから全ては始まる。読者を惹きつけるには斬新さが必要だ。ならば野菜のように新鮮なものを選んで使うべきだろう。しかし場合によっては、ワインのように使い古された設定が深みを与えることもある。この時点で完成した時の全体像をはっきりさせておき、どんな食材を使うのが最適なのかを見極めるというのがプロに必要なことなのだろう。
「だから世界観が受け入れられるか不安だというのなら、痛んだ食材が混ざっていないかよく確認してみてはどうかな。この店で使っている水なんかも、そういうことを考えてわざわざ裏に井戸を掘ってそこから汲み上げたものだからね」
 完成したコーヒーを二つのカップにそれぞれ注ぎ、角砂糖を自分は一つ、彼の分には二つ落として差し出す。互いに顔の前で一旦手を止め香りを味わい、一瞬置いて口をつける。
「さて、次は台詞や描写といったものだね。それは例えるなら……そう、この砂糖のようなものかな」
 揃えた食材を料理の形に仕上げる上で、調味料は必須だ。素材の味を引き出したり、あるいは不快な味を打ち消したり、全く新しい味を付け加えたり、香りを足したり、時として混ざらない食材同士の触媒として機能したり。文章における描写とは、つまりそういうもの。食材と混ざり合うことでその魅力を最大限に引き出し、その料理全体の味――物語の向かう先を描き出す。
 そして描写が調味料ならば、台詞はさしずめトッピングだ。ほぼ完成された料理の中へ更に異質な味を付け加え、どこから食べても同じ味しかしなかったものへ見た目と食感の両方からアクセントを与える存在となる。これは、全体へ満遍なく染み込ませる調味料とは扱いの勝手が違う。少量すぎては全体の味に埋もれてしまい、かといって全面に塗りたくったからといっておいしくなるものでもない。台詞だけの物語など、マヨネーズ以外の部分が見えないサラダのようなものだ。
「つまり重要なのは、全体で見た時の調和だね。このコーヒーには角砂糖を一個か二個だけ入れるのが一番おいしいように」
 話している間に程よく冷めた残りのコーヒーを、一気に飲み干す。
 同じようにして空になったカップを置いた彼の顔は、幾分か晴れたもののまだ何か悩み事を貼り付けているようだった。
「……あと、一つだけずっと悩んでることがあるんです。俺の書く物語、どれもこれも全部ハッピーエンドで、だけど世の中にはそんなの嫌だって人も決して少なくなくて、どうすればいいんだろうって」
 なるほど、と呟き、顎に手を当てて一瞬の思案。
「そういう人は、確かに存在します。でもそれはきっと、君の努力次第でどうにでもなるんじゃないかな」
 そもそもハッピーエンドを否定する人々が口を揃えて並べる文句というのは「現実はこんな都合よくいくわけがない」の一言に尽きる。自分は、家族は、友人は、伝え聞いたあの人は何もかもが丸く収まったような人生を送ってきてはいない。だから理想論を並べるだけの物語が嫌いなのだ、と。だが、多くの人はこの発言の矛盾に気づいていない。あるいは指摘された時に言い返せないためにわざと無視している。
 物語とは、“現実ではない”。
 文字を通してそれを見た人々の脳裏へここではない新たな世界を生み出し、現実とは異なる森羅万象を描くのが物語だ。そして物語を読んでいる人はその間だけ現実を抜け出して新たな世界の住人となり、登場人物達の記憶を追体験することになるのだ。そこに現実の尺度を当てはめる余地は、本来であれば存在しない。それでも当てはめようとする人がいるならば、それは作者の技量不足で完全に現実から切り離せていないということに他ならない。
「だから今の君に必要なのは、何よりも数をこなすこと。積み重ねた努力は自信に繋がり、その自信が新たなものを生み出す原動力となる。これも、料理と変わらないね」
 役目を終えた食器達を流し台に運び、スポンジに洗剤を染み込ませて泡を生み出す。力を入れすぎて傷などつけてしまわないよう優しくカップの表面を洗い、蛇口をひねって泡を流す。タオルで水気をふき取って元の棚へと戻しながら、ふと大事なことを言い忘れていたことに気づく。カップのあった場所を見つめたまま難しい顔で固まっている彼の元へと歩み寄り、肩に手を置いて語りかける。
「最後に一つだけ。料理も、物語も、その本質は“人を喜ばせる”ことだ。それさえ忘れなければ、きっと君はいい作家になれる。私が保証するよ」
 そこでようやく彼の顔に、笑顔が戻る。
 サイフォンを棚の中へと戻しながら、背後で彼が鞄からペンと原稿用紙を取り出す音を聞く。戸棚を閉めて振り返れば、彼はもう新たな作品の執筆に取り掛かっていた。
「今度は、何を創るのかな?」
 何の気なしに投げかけた質問に、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて答えた。
「とりあえずは、今の話を“料理”してみようと思います」

このお話は、自分がたまにアドバイスとして言っている「国語の基礎をしっかりする」といった文章を書く上で一番最初のステップをマスターした人へ、次の段階へ進むための道しるべとして用意したものです。
前々から言おう言おうと思っていたんですが、掲示板に書き込むには少々量が多くなりすぎてしまったので、こうして物語という姿を与えてみました。ちなみに自分はコーヒー派でも紅茶派でもなく麦茶と牛乳とココアで年中過ごしています。これを書くにあたって一生使わないであろうサイフォンでの淹れ方をちゃんと調べました。こういう勉強は作品にリアリティを与える上で大事ですよ。作中の言葉で言うならば「現実から引き込むために」ね。
最初に道しるべとは言いましたが、これは我流のものですので絶対的な答えではありません。その点を踏まえて、自分なりの結論を見つけてもらえたらいいなと思います。

あと、物語の中に収め切れなかったことを少々補足。
「元ネタ有り」の作品というのは例えるならば、すでに完成している料理を一旦材料に戻し、そこに何かを加えたり除いたりして新しく調理し直したもの、と言えます。
自分が今まで作ったもので言えば、目玉焼きという原作を卵に戻し、そこに調味料を加えたり調理過程を変えて卵焼きに生まれ変わらせた、といったところでしょうか。中に少量のハム(=設定)を仕込んだりはしましたが、オリキャラのような巨大な食材は入れてないですね。そういうのを入れすぎるっていうのはホットケーキを完成させて「卵料理です」って言い張るようなものでしょうから。
それともう一つ。たまに見かけるんですが、あとがき部分でキャラ紹介などをするのはやめた方がいいです。
あとがきというのは、料理ではないです。店内に備え付けられたインテリアのようなものであり、そこに注目する人としない人がいる。壁の飾りに紛れて「食べる前に必ずこの調味料を入れてください」なんて書かれたビンが並べてあったとして、全ての人がそれに気づいてくれると思いますか?

他にも色々言いたいことがあったりなかったりしますが、まあここは説教する場ではないのでこの辺で。
我々の創る物語が人と人を繋ぎ、その心に何かを残せることを祈っています。

2010年7月19日
明け始めた空に徹夜して書き上げたことをちょっと後悔しながら th

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